はじめに <序破急を説いている文献>
世阿弥が序破急について述べている文献は、部分的な言及個所を除いても次の8編があります。
1. 風姿花伝・第3.問答条々
2. 風姿花伝・第6.花修
3. 花習内抜書(かしゅのうちぬきがき)
4. 二曲三体人形図
5. 三道
6. 花鏡
7. 拾玉得花(しゅうぎょくとっか)
8.習道書(しゅどうしょ)
以下に、文献ごとに序破急を説いた部分を抜粋した現代語訳を示します。本稿では、日本思想体系24「世阿弥・禅竹」(1974 岩波書店 校注:表章・加藤周一)及び「風姿花伝・三道」(2009 角川ソフィア文庫 竹本幹夫訳注)を参照しました。
① 「風姿花伝・第3. 問答条々(もんどうのじょうじょう)」
この書には、全部で13の問答が記され、序破急については、2番目の問答で次のような記述から始めて、序破急を一日の演能の順番に当てはめることを説いています。
問 能に序破急をば何と定むべきや。
答 これ易き定めなり。一切の事に序破急あれば申楽もこれに同じ。能の風情を以て定むべし。
ここでは「能の催しに、序破急ということをどのように配置したらよいか。」という問いに、「これは簡単な規則だ。万事に序破急ということがあるので能も同じだ。能の演技内容によって配置すればよい。」と答えています。
そして、一日の最初に演ずる脇能(わきのう=「翁」の脇に添えて演ずる能の意)は、できるだけ正統な言い伝えなどに拠ったもので、上品な内容ながら、むやみに手が込んでおらず、謡(うたい)や動作も穏やかで個性の強くない曲を、すらすら・楽々と演じるのがよい。何よりめでたさが一番。どんなに優れた能でも、めでたさが欠けてはふさわしくない。たとえ作品として多少劣っていても、めでたい内容であれば、問題はない。「序」の能だからだ。
2番目・3番目になったら、得意な演目で良い作品を演じるとよい。
とくに最後の能は「急」だから、たたみかけるように急迫したテンポで、見せ所・聞かせ所の演技を派手に演じるのがよい。
また、2日目の最初の能には、前日の脇能とは違った姿の能をやるべきだ。観客の涙を誘う曲を、2日目の「破」の順番のところに、よい頃合いを判断して演じるのがよい。
② 「風姿花伝・第6.花修」
この編は「能の本を書く事、この道の命なり。」と書き始めて、能の作り方を述べています。
能の種類のおおよそは、花伝・問答条々の序破急の段に記してある。
一日の最初の能は、典拠が正統で、最初の謡い出しからあゝあの話のあの人物かとすぐに観客に分かるような謂われを元にして書くべきだ。むやみに手の込んだ演技を盛り込む必要はなく、一曲の流れが一貫していて、最初の部分を少し華やかな感じに、一番目の能を書くのがよい。
また番組が進んで2番目・3番目に演ずる曲としては、できるだけ詞章や演技に面白さの工夫を尽し、細部まで念入りに書かねばならない。
具体的に言えば、名所・旧跡にちなむ曲ならば、その土地に取材した詩歌で、耳慣れた文句を、作品の山場に集めるのがよい。為手(シテ=主人公)のセリフや演技と関係ない所に、作品の主題に関わるような大事な言葉を載せてはならない。見物客たちは、どんなことをしても、見るのも聞くのも、シテ以外を相手にしない。花形役者の名セリフや演技に目がゆき、そこで心に響けば、見聞きした人は、即座に感動するのである。だから、シテの演技に名文句を集めることが、能を作るための最も大切な方法なのである。(シテ中心主義を明確に述べています。)
ひたすら優雅で、意味が即座に伝わるような詩歌の文句を引用せよ。優美な言葉に合わせて振る舞うと、不思議と自然に主人公の演技も優美なものになるのである。ゴツゴツとした文句では、動作をうまく合わせられない。とはいうものの、固い印象の言葉で耳慣れないのが、またよい場合もあるだろう。それは素材となった主人公の役柄によって、似合うこともあろう。典拠が中国の物語か、日本の物語か、その内容により判断するがよい。これに対し卑俗な言葉を用いると、演技までが下品な能になってしまうものである。
③ 「花習内抜書(かしゅのうちぬきがき)」
内題に「能に序破急の事」とある書で、1ヶ条のみが伝存し、欠けた部分は後に著した「花鏡」で補えると言われています。本編では、花伝・問答条々の序破急理論の応用を、一日の演能の順番について詳しく述べています。
花伝におおよそは書いたけれど、さらに心得るべきことがある。まず、一切の事に序破急があるので、能でもこれを定めるのである。それは、演能の進行過程における秩序・法則についてである。
「序」とは、最初の能だから、基本である。分かりやすく皆が知っているようなもので、あまり手の込んだものでなく、めでたい曲から始めるべきである。演技は歌舞だけとすべきである。歌舞は能の基本の芸だからである。だから、歌舞を以って「序」の能とすべきなのだ。
2番目の能は、最初と変わった演技で、正統な根拠のある能を、しとやかではなく、強々とするのがよい。これは、それほど細かな演技や技巧を尽くす時ではなく、まだ序の名残りのうちだからだ。(「破の序」と言う。)
3番目の能からは「破」になる。破はやぶると書き、最初の正統で一貫した分かりやすい曲から、細かに手を尽くした演技の能に移って行くという意味である。序は自然と定まる姿で、破は、和らげて分かりやすくすることである(漢籍や仏典を和訳して注釈する、とも)。だから3番目の能は、細かな技巧を凝らした幽玄な曲を演ずるべきである。その日の中心となる能にすべきだ。
4番目は、文句の面白さがあって、言葉のやりとりや理屈の言い立てが展開するような能にすべきだ。または、悲劇的な能も非常によい。4・5番目までは、まだ破の内である。
「急」と言うのは、最後という意味だ。これは、その日の別れぎわなので、終末にふさわしい曲がよい。破というのは、序を破って色々な種類の趣向を尽くして、徹底的に表現することである。急とは、その破の曲趣をさらに踏み込んで、別れとするものだ。そういうことで、急の能には、揉み寄せて、動きの速い舞、または、強く激しい動作の演技で観客がハッと驚くような曲がよい。揉むというのはこの時の演技である。
およそ昔は一日の演能の数は4・5番に過ぎなかった。それで5番目は必ず急の能であったが、現在は、けしからんことに番数が多くなり、急の能が早く演じられたり、急の能がズーっと後になったりして、一日の能全体の展開が悪くなってしまう。能は破で時間を費やすべきであり、破の能で色々な曲を展開し、急の能はなんとしてもただ1曲でなければならない。
但し、貴人のご意向で演ずる場合は、順序がズレ、予定していたようにはゆかなくなるだろう。そうであっても、能の進行の序破急を踏まえ、まだあとに残っている能がある場合は、たとえ要請によって急の種類の能を演じても、控え目にするように気を配って(心を十分にはたらかせ、演技を七分に控えて)、最後に本来の急の能を演ずる余地を残すべきである。
以下、花修では、貴人が遅れて来た場合や酒宴・酒盛りでの演能における序破急の応用を説き、序破急の原則は、重要な演能から、酒盛りやチョットした謡(うたい)を謡う程度の席まで、全体の進行・展開を心得て応用しなさい、と結んでいます。
④ 「二曲三体人形図」
この書で、二曲とは舞と歌で、三体とは老体・女体・軍体を言い、既に「至花道」で詳しく述べてあるが、9枚の絵図を入れて説明するので、役柄に応じた演技をよくよく修得すべきである、と説き起こしています。
力強く身体を動かし荒々しくて勢いも形も心までも鬼の舞は、「急」の段での力道風(世阿弥用語)の演技であり、観客の目を驚かし、一時的にせよ心を動かす感興をもたらすだろう。だから、1日の演能で、二度と繰り返してはならない。(ここでは、力道風を容認していますが、後の書に世阿弥は「他流の事」として原則的には演じないこととしています。)
老体から順々に詳しく述べて天女の舞を説いた後で、序破急には5段があり、序が1段、破が3段、急が1段であると続けています。しかし、破を序の先にして、短くすべき急を伸ばして舞う場合がある。時によって臨機応変に舞うもので、順略(世阿弥用語)と名付けているから、よく相伝すべきだ、で結んでいます。(序破急に直接言及していない部分は省略してあります。)
⑤ 「三道」
この書はもっぱら「能」の作り方を説いています。
能の制作は、まずは、種・作・書の、三つの基本から成り立っている。第一に、能の題材となる主人公を探すこと、第二に、能の枠組みを作ること、第三に、能の詞章を書くことである。典拠となる説話や物語の中核である主人公をよくよく選び定め、序・破・急の三構造を五段に構成して、それから言葉を選りすぐり、節付(ふしずけ)を行って、書き連ねるのである。
第一に、「種」というのは、能の典拠においては、主要な演技をする人物が誰かによって、舞や歌を演じるのに大きな効果が生じることを認識せねばならない。一体、能の姿というのは舞歌を基本とする。舞と歌と2要素からなる演技をしないような人物が主人公では、どのような歴史上の人物・著名人だろうとも、能としての面白味はあるはずがない。この道理をよくよく考え、会得せねばならない。
たとえば、能に登場する人物としては、神に捧げる舞歌の演じ手である天女や女神や神楽(かぐら)乙女、男性としては在原業平(ありわらのなりひら)や大伴黒主(おおどものくろぬし)や光源氏(ひかるげんじ)のような風流な男、女性では伊勢や小野小町や祇王(ぎおう)・妓女、静御前(しずかごぜん)、百万のような芸能者、これらはすべて、その人物が舞や歌を演じる点で名高い人であるから、こうした人物たちを能の主人公に作り上げたならば、自然と作品としての効果も絶大なものがあろう。また大道芸人としては、自然居士(じねんこじ)・花月・西岸居士などの僧形の芸人があり、そのほか名もなき老若男女を主人公にする場合でも、すべて舞歌の芸にふさわしいような人物造型にして、これを制作するがよい。以上のように重要な主人公を探し出す作業を「種」と呼ぶのである。
第二に、「作」というのは、能の主人公を右のように探し出した後に、塾考して演技内容を決めなければならない。
まず、序・破・急は五段に分かれる。序が1段、破が3段、急が1段である。ワキが登場して、指し声の名ノリから、次第、上げ歌までで1段。シテが登場し、一セイの謡(うたい)から上げ歌までが1段。その後、ワキと対応して、末に合唱の謡があるまでが1段。その後さらに、曲舞(くせまい)であれ、普通の謡であれ、ひと謡で1段。そして後場となって、舞であっても物マネ的なハタラキであってもが1段。最後が中ノリ地(じ)の謡で結ぶ。以上5段である。あるいは典拠の内容・構成により、6段になる場合もあろう。または演技の内容により、1段少なく、4段などで構成される能もあろう。まずは、基本的な姿として定めたのが、5段の構成である。(参:ワキはシテの相手役。指し声は落ち着いた感じの声。名ノリは自分の名を名乗ること。次第・上げ歌・一セイは曲を構成する小段の名称。中ノリは謡〔うたい〕の拍子・リズムの一種。地〔じ〕は合唱部〔正確には斉唱〕のこと。)
この5段を設定して、序の段にどれぐらいの謡が必要だろうか、破の3段分に3種類の謡がどの程度にし、急の段にふさわしい謡がどれほどかと、七五調の謡の句数を定めて能一番を構成することを、能を作るというのである。能の種類や趣により、謡の序・破・急のそれぞれで作曲に変化がなければならない。能1曲の長さは、序破急5段のそれぞれの句数によって按配(あんばい)するとよい。
第三に、「書」というのは、その能の冒頭の部分より、主人公の性格により、この人物ではどのような詞章を書けばよいだろうかと、工夫を凝らして考えることである。祝言・幽玄・恋・述懐・茅屋(ぼうおく)といった、様々な主題に関連するはずの詩歌の言葉を、作品のありように応じて、うまく按配して書かねばならない。
能には、その典拠と不可分の場所というものがあろう。名所や旧跡といった面白味のある場所であれば、その土地について詠まれた名歌や名詩句の表現を借りることになるが、それは能の破3段のうちの、山場と思われる部分に書き込むのがよい。これは能の最も大切な核心部分である。そのほかの美しい表現や名文句などを、主人公役の歌唱部分に書くのがよい。
以上のように種・作・書のおのおのを作品に応じて工夫するのを、能を書くとはいうのである。種作書の三道の概説は以上である。
この後、老体・女体・軍体の3体についての作り方を詳説しており、随所に序破急のどの段に該当しているかを区別して説いています。
続いて、大道芸人の遊興物、姿が鬼で心が人の鬼神体、さらに少年の能を作る留意点を述べています。
最後に、修羅や鬼神もので一時的な人気を博しても、世間で長く名声を保つことはなかった。本物の幽玄を基本芸とする芸位は、時代がどんなに変わっても、観客の評価に変化は起こりえないように思われる。だから、歌舞幽玄の花を咲かせる種となるような作風を基本として、能を制作すべきである。都会でも田舎でも名声を博し、天下の名望を永遠に獲得できるのが、幽玄の花なのである。応永年内(1394~1428年)の作品の数々は、未来においても、それほど悪い評価を与えられるはずはないと確信する、と結んでいます。
⑥ 「花鏡」
全体は20編から成っており、その8番目に「序破急乃事」と題した編があり、一日の演能の展開原理としての序破急を説いています。
その内容は、②花伝(第三・問答条々・第2問答)の応用編であり、④花修内抜書とほとんど同じ文章となっていますので、内容紹介を省略します。
⑦ 「拾玉得花(しゅうぎょくとっか)」
世阿弥が娘婿(むすめむこ)の金春禅竹(金春家57世。実質的流祖)へ、これまでの能楽論を深化させて相伝した書です。
6編の問答形式から成り、その第5問答「成就(じょうじゅ)」に、序破急が正しく展開してこそ理想的な結果、即ち「成就」が得られると説き、序破急は神羅万象に及ぶと述べています。
問い。芸道の全てで成就を大事にするが、それは文字通りの意味なのか、もっと深い意味があるのか。答え。成就とは「成り就(つ)く」である。それならば、能の道において、成就もまた面白きということかと思われる。この成就は序破急に当たる。何故ならば「成り就く」は、順調に進行して物事が落ち着くことだ。これがなければ人の心に満足感は生まれない。演技が成就するその瞬間に面白かったと感ずるのだ。序破急が正しく展開して終われば成就である。
よくよく考えるに、宇宙の万物(神羅万象・是非大小・有情非情)すべてに序破急がある。鳥のさえずり、虫の鳴く音に至るまで、それぞれ天賦のままに鳴くのにも序破急がある。これこそ最高の芸位の成就だ。だから、面白いと聞こえ、哀れを催す心も生まれるのだ。成就がなければ「面白さ」も「哀れさ」も感じないだろう。
藤原長能(ながとう)は「春の東風に林の木々が揺れ、北風が結ぶ露に秋の虫が鳴くのも、すべて和歌の姿ではないか。」と説いている。だから、有情・非情の全部が詩歌を詠吟し、序破急の成就を感じさせる。草や木が雨露を受け、花が咲いて実がなるのも、風の音や水の音にも、序破急があるのだ。
能に序破急が大切な事は、既に「花伝」・「花鏡」に詳しく述べてある。1日の演能が全部終わって観客から褒美を得られるのは、その日の序破急がうまく成就したからで、めでたく落ち着いたのだ。これは見物人一同が目の前で感激する成就である。序破急は一日の演能の展開だけではなく、1曲ごとの中にある序破急も成就したのだ。また、舞の一つ動作・謡(うたい)の1音にも序破急の成就がある。舞の袖の一振り、足で拍子を踏む一響きにも序破急がある。このことは筆では書き尽くせないので口伝(くでん)する。面白いという感激は観客の心の序破急の成就であり、それを生み出す演技は芸人が成就させた序破急である。観客が「アッ」と感ずる1音にも成就がある。謡い出すタイミングが観客の気分と合致した時に、その発声の1音の音階や緩急がその気分に合ったとき、音楽的な序破急の成就となろう。もし、心がこもっていない謡が1音でもあれば、観客に感激は届かず成就もないだろう。それは、序・破と続いても急における収まりのない謡だ。ましてや成就などあるはずもない。だから面白くないのだ。ここの所を理解しなければ、音曲についての序破急は成就しない。自分が口伝し、「花鏡」でも記している「一調・二機・三声」とは、心の中で音程や緩急を整えるのが序、発声のタイミングを図るのが破、息を内へ引いて声を出すのが急である。この3っつが成って、声が耳に届き、おもしろきと心を動かすことができれば、成就である。従って、あらゆる曲について、一つの演技、謡の1音が、観客の気合と合致するのも序破急の成就となるのだ。
中国の荘子は「鴨の足が短いからといって、繋いで長くすれば困るだろう。鶴の足が長いからといって、切って短くすれば悲しむだろう」と言っているように、長短・大小に差はあっても、それぞれ平等に序破急を備えている。この意味を体得すれば、能芸についての自己の研鑚も深まったと言えるだろう。同じように我が芸風の良し悪しをも、明確に理解すべきだ。そうなれば、良いところをさらに伸ばし、悪いところを除けば一つの芸道における無上の達人となるだろう。そうして人から習ったり下手な細工をしなくても自然に成就する芸境を獲得するのだ。この時に、根源的な内心の序破急も成就し、身に付くだろう。ともかく、全ての曲の面白さは序破急の成就にあると知るべきだ。もし、面白くなければ序破急が成就しなかったと知るべきなのである。私が心配するのは、この序破急の原理を真に理解し体得できるか否かである。心の奥底の根源まで極め尽くして、この素晴らしい原理を悟れば体得できるかも知れない。よくよく工夫して見ると、これまで色々見たり聞いたりしたが、面白いのは成就であり、これを上手(じょうず)といい、面白くなければ成就せず、下手(へた)というのだ。
⑧ 「習道書(しゅどうしょ)」
本書は、申楽(さるがく)の一座の構成や役割と、それぞれの心構えを、座の棟梁への教えとして全8項を立てて書いています。
最後の第8項で、一日の演能の番数が増えたことに対する序破急原理の応用を次のように説いています。
一日に演ずる能の番数は、昔は4・5番に過ぎなかった。現在も神事や社寺の勧進などでは、能3番と狂言2番を合わせて5番である。近年、室町御所などからの要請で演ずるときは、番数が増えて7・8番や10番などとなる場合があるが、自分たちが勝手にやっていることではない。ところで、能の序破急のことだが、「翁」に添える脇能は「序」であり、2番・3番・4番の「破」では演技の手を尽くし、5番目の「急」で終わる。序破急がうまく進行して、能会が理想的結果の得られる行事となるのに、思いがけないほど番数が増えれば、序破急が乱れ、演ずる曲の順序も混乱してしまう状態になる。どう考えても芸人には重大なことである。しかし、貴人からの仰せであれば、仕方のないことである。
そうであっても、このことを一座の役者は理解し、「破」から「急」に移るあたりでは、面白い技や曲を出し切らずに控えて余裕を保ち、演技の奥義を残す方法を考えるべきだ。観客を感激させる達人の芸力は、このような時に発揮すべきではないか。前々から工夫してきた対策により、番数を増加させて序破急の原理を応用すべきである。
申楽一座の成就する習道の在り方は以上の通りである。(習道:芸道の修得)
まとめ <世阿弥の序破急理論>
1. 世阿弥は、序破急は万事にあるので、これを能楽に取り入れた。
2. まず、一日の演能を序破急の順序とした。
* 一日の演能は5番立ての番組とするのが標準である。
* 序、破の序、破の破、破の急、急の5段で進行させる。
* 序は、一日の始まりなので、分かりやすくめでたい曲とする。
* 破の序は、序の名残りであり、細かな演技より強々とした曲がよい。
* 破の破は、その日の中心であり、技巧を尽くした幽玄な曲を演ずる。
* 急は、別れとなる曲なので、強く激しい動作の演技で観客がハッと驚くような曲がよい。
* 番数が増える場合は、破の曲で時間を延ばし、急の曲を残しておく。
* 急の曲を途中で演ずることになった場合は、控えめに演技し、最後に本来の急の曲を演ずる。
3. 次に能の作り方に序破急をあてはめた。
* 演じる順番を定めて、その曲趣にふさわしく作る。
* 1曲を序破急の5段で構成して作る。
4. 序破急は、次のような僅かな時間の中にもある。
* 1曲の進行
* 舞の一つの動作
* 謡(うたい)の1句
* 声を出す瞬間
5. ほかにも序破急は、観客の心の中、演者が生み出す演技の流れなど、大小・長短を問わず、それぞれに平等にあり、神羅万象に及ぶ。
6. 能興行の成否、1曲の出来不出来、舞や謡の良否など、すべては序破急がうまく運んだかどうかで決まる。面白いか面白くないかも同じことである。能作の良し悪しも同じだ。
補足 <現在の能楽に生きている序破急>
・現行能248番は、1曲ごとに演ずる順序=曲柄が定められている。
・1日の番数が少ない時でも上の曲柄の順に従っている。
・1日の能が1・2番の場合などでは、初番目物の連吟などで始める。(連吟=れんぎん:曲の一部を数人で謡うこと。)
・仕舞を何曲か舞う場合は、その曲柄の順序に従っている。
・1曲の進行、舞の足運びの動作、謡(うたい)の1句に序破急を演じている。




