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その他 能楽外縁観測 第3部-1 江戸中期の「謡曲十五徳」

2021-12-01

はじめに、一番古い「謡曲十五徳」を紹介します。

観世文庫の整理番号203/11で検索すると画像が確認できる「うたい十五徳」がそれです。
横長の画像を読み取り、3分割して掲げると次のとおりです。
始めに、3分割の中央部分を読み下します。

「右は細川三斎と小堀遠州二人の作である。
謡うたいには十五の徳があり、三斎と小堀遠州二人の作という。
細川三斎公は利休七哲の一人で、
茶家として評価され、小堀氏は三斎より若いけれども、遠州流という茶家の指南者である。
二人とも武勇の達者だけではなく、茶と禅の仲間でうたいも早くからしていた。」

次に右1/3の「うたい十五徳」を横書きにして、
読みを付けてみます。段書きの本文を、縦に続けて読み、便宜上の番号とコメントを付けました。

謡 曲 十 五 徳

1. 行而知名所
行かずして名所を知る
謡曲は名所旧跡巡りのオンパレード

2. 在旅而得知音
旅に在って知音ちいんを得る
旅先でも謡曲の話で盛り上がる

3. 不習而識歌道
習わずして歌道を
いつも和漢の詩心を謡っています

4. 不詠而望花月
詠まずして花月を望む
詩は作れなくても雪月花の風情は味わえる

5. 無友而慰閉居
友無くして閑居を慰む
友がいなくても一人で楽しめる

6. 無薬而散欝氣
薬なくして欝気うっきを散ず
腹の底から声を出せば気分爽快

7. 不思而昇座上
思わずして座上に昇る
謡歴の短い上役より上座に着席

8. 不望而交高位
望まずして高位と交じわる
謡友には高位高官も

9. 不老而知古事
老いずして古事を知る
伝承など昔話には事欠きません

10. 不戀而思美人
恋せずして美人を思う
小野小町おののこまちや高貴な婦人とも謡い交わします

11. 不馴而近武藝
馴れずして武芸に近づく
気迫の謡いは武芸者の気合そのもの

12. 不軍而識戦場
いくさせずして戦場を
修羅場で亡くなった武将の悲哀を痛感

13. 不祈而得神徳
祈らずして神徳を得る
神話を語って謡えば神のご加護あり

14. 不觸而知佛道
触れずして仏道を知る
成仏を願う弔いは謡曲では日常茶飯事

15. 不厳而嗜形美
げんならずして形美をたしな
背筋を伸ばして謡えば姿勢も良くなる

コメントのとおり、令和の現代でも十分通用する内容になっています。

最後に、残りの左1/3を読み下し、コメントを付けてみます。

国楽こくがくうたいの得(徳)に
十利あるを聞け

我が国の謡曲には10の利徳があることを知りなさい。


一 六藝第二國樂國人 不可不知
六芸りくげいの第二は国楽こくがくなるを、国人こくじん知らざるべからず。
謡曲は社会人にとって欠かせない教養であることを忘れるな。
(六芸は中国周代の基本教養の礼・楽・射・御・書・数を言う。つまり、礼法・音楽・弓術・馬術・書道・算数の六つで、第一と第二を合わせて礼楽と併称されます。国楽は謡曲を含む邦楽を指します。国人は日本人のこと。)

二 神男女鬼四霊 能次第為蹈舞
神男女鬼しんなんにょき四霊しれいは、次第しだいとう(踏)となす。
能の主人公である神男女鬼の亡霊は、能の舞を上手に舞います。

三 王公卿大夫等 聞謡座知名跡
おう 公卿くぎょう 大夫たゆう等も、うたいを聞き座して名跡を知るなり。
王様と役人や能の大夫たちも、謡曲を聞いて居ながらに名所旧跡を知るのです。

四 貴賤僧俗之人 聞謡知有佛法
貴賤僧俗きせんそうぞくの人も、うたいを聞けば仏法の有るを知るなり。
誰でも謡曲を聞けば、仏法のありがたさを知るだろう。

五 有不知佛法人 聞謡頗知因果
仏法を知らざる人有りとも、うたいを聞けばすこぶる因果を知るなり。
仏法を知らない人でも、謡曲を聞けば原因と結果の関係がよく分かるだろう。

六 日本學多在謡 聞謡者知其事
日の本の学はうたいに多く在り、うたいを聞く者は其の事を知るなり。
うたいを聞く者は、日本の知識の多くが謡曲にあることを知るだろう。

七 有不詠和歌者 聞謡知敷嶋道
和歌を詠まざる者有りとも、うたいを聞けば敷嶋しきしまの道を知るなり。
詩を詠まなくても、謡曲を聞けば和歌の道を知るだろう。

八 謡雖歌舞唱伎 文句禅教律部
うたい歌舞唱伎かぶしょうぎなりといえども、文句は禅の教うる律部りつぶなり。
謡曲は歌舞芸ではあるが、詞章は禅の教える規律になっている。

九 今稱能大夫者 能達國樂藝能
今、能の大夫たゆうと称する者は、国楽こくがく芸能に達せり。
能の大夫は、我が国の芸能の達人である。

十 闕金石絲等音 笛鼓大鼓音調
金石絲きんせきし等の(欠)くとも、笛鼓大鼓で調しらぶるなり。
多くの楽器をそろえなくても、笛・つづみ大鼓おおつづみだけで演奏できます。
(金石絲はかねけいことのこと。けいは、吊るした石の板を叩いて音を奏でる楽器。)

  紫野大心 花押


この掛軸が書かれた時期は、観世文庫資料では江戸中期となっています。

筆者の紫野大心は、江戸前半期に活躍した大徳寺273世住持の大心義統だいしんぎとうで、
その生没年(1657~1730)及び、住持就任が1706年だったことより、今から300年前頃の作品と考えられ、これが一番古い「謡曲十五徳」の図書と思われます。

大徳寺で大心の後任住持の就任年は、287世住持=龍岩宗棟りゅうがんそうとう就任の1714年まで不明で、大心の住持退任時期は、これ以前となります。
しかし、大徳寺の限られた高僧だけに許された「紫野」の尊称を退任後も冠することがあるかも知れませんので、十五徳を書いた年代は、1706~1730年になると思われます。

右1/3の「十五徳」は細川三斎と小堀遠州の作と書いてありますが、左1/3の「十利」については誰々の作と断ってありません。よって「十利」は大心自身の作かと思われます。
(「十五徳」の最初の提唱者については、別項で検討することとします。)

観世文庫・能楽資料解題目録(2021年1月檜書店刊 観世清和監修 編集代表松岡心平)272頁の「謡十五徳・謡十利」整理番号203/11では次のように記しています。

[外題]なし [内題]謡十五徳 
[装訂等]掛軸1幅。26.8×87.3cm 
[年代]江戸中期 [著編者]大心 
[解題]紙本墨書。横長の本紙で、右に「謡十五徳」を二段に書き、
「右細川三斎小堀遠州両作」とあり。
次に「謡ニヤ。十五徳アリ。三斎ト。小堀遠州。両作之由(ヨシ)」
以下四首の和歌を記す。次いで「聞国楽之謡得十利」を十行に列記。
末に「紫野大心(花押)」と署し、朱鼎型印「大心」と朱陰方印
「□東心□」を捺す。書名下の花押は「義統」の崩しと見られる。
表紙に「第六十四号」「大徳寺大心筆」と記した紙片を貼付。
箱蓋表に「謡曲十五徳<仝>十利 紫野大心筆一幅」と墨書。
箱身に貼紙「大心和尚謡十五徳(印「真」「観世」)」。

目録の凡例の年代区分では、
江戸前期:1603~1680年
江戸中期:1681~1780年
江戸後期:1781~1876年
としています。

なお、解題の中の四首の和歌とあるのは、
三斎と小堀に関する説明文章の間違いと思われます。
(文章の詳細は最初の書き下し文を参照ください。)

念のため、大徳寺について説明をしておきます。

所在地は京都市北区紫野で、紫野は万葉集に「あかねさす紫野行き標野しめの行き野守のもりは見ずや君が袖ふる」
(あかね色に染まった朝に、紫草の野を行き、その御料地の野を歩いているとき 、あなたがそんなに袖を振っては、狩場の野を守る番人に見つかってしまうでしょう)
と詠まれ、古来、船岡山麓の七原野の一つで染料の紫草が一面に生い茂り、
平安時代には天皇の御猟場となっていました。

謡曲に登場する「雲林院(紫野院)」の境内に建てた大徳庵が大徳寺の源で、
雲林院が衰退して大徳寺が繁栄した歴史があります。

概略を記すと次の通りです。
雲林院は、平安(794~1185年)初期の淳和天皇(在位723~833年)の離宮「紫野院」として造られ、869年に僧正遍照(816生~892年没)に託されて「雲林院」となり、鎌倉(1185~1333年)まで菩提講・桜・紅葉で有名だった。その後衰退して1324年に大徳寺の塔頭として復興されましたが、室町(1392~1573年)末期の応仁の乱(1467~1477年)で焼失し、江戸(1603~1868年)中期の1707年に再建されました。
源氏物語の作者の紫式部(975頃生~1019年没)生誕の地とも言われ、近傍に墓があったとされています。

大徳寺は、鎌倉末期の1326年に大燈国師(宗峰妙超1282~1337)
が建立した禅宗寺院(臨済宗)で、一休宗純が第47代住持として
再興に関わったり、千利休が帰依して、境内の金毛閣に設置した
利休木像がわざわいして
信長から切腹を命じられたり、その信長の菩提寺の総見院が境内
に建立されたり、沢庵宗彭が154世住持に就任したり、
小堀遠州作と伝わる国指定の特別名勝の方丈庭園や、
唐門の国宝や重要文化財の建造物・絵画等を有する大寺院です。

近年の住持は2012年就任で、新潟県南蒲原郡田上町の出身・泉田(宗健)玉堂530世となっています。
(大心は1706年に273世住持に就任でした。計算すると、初世から530世まで686年あり、住持は平均で1.3年ごとに交替していることになります。)
そして、「紫野」は大徳寺住持の中でも、塔頭たっちゅうの住職に限られた尊称となっています。


次の項目など、引き続き「能楽外縁観測第3部」をご覧になる場合は「謡曲の統計3」から進んで下さい。

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