その他 「能楽外縁観測」第3部-3「謡曲十五徳」の提唱者について
2022-01-03
第3部-2の表で、全20件のうち、提唱者を具体的に記しているのは3割の6件だけでした。
20件の提唱者についての記述は、次のようになっていました。
ⅰ. 細川三斎と小堀遠州 1件(古書)
ⅱ. 細川幽斎と小堀遠州 1件(古書)
ⅲ. 細川幽斎 4件(令和のみ)
ⅳ. 記載なし 14件(令和の「古来より」の1件を含む)
提唱者を記しているものは、300~100年前の古書9件の中では2件、令和では11件のうち4件だけでした。以上をグラフにすると次のとおりです。

「謡曲十五徳」を最初に提唱したのは、幽歳・三斎のどちらなのでしょう。
小堀は関係ないのでしょうか。
調べてみると、この種の一番古い記録が、第3部-1で紹介した江戸中期の大心筆「謡十五徳」(1700年頃)でした。
次に古いもので提唱者を掲げているのは、明治15年(1882年)泻山々人筆「能楽十五徳」(観世文庫:整理番号203/21)です。
大心筆と同様に2段書きで、同じ徳文の15条が書かれています。
但し、「而」の文字が省略され、順序が少し違っており、筆者「泻山々」の詳細は不明となっています。
(「閑居→閒居」と文字が1ヶ所で違っています。)
ここには、「右能楽十五徳文/細川幽斎小堀宗甫所作/明治壬午寒露後三日泻山々人書(角朱印2ヶ)」と記され、細川幽斎と小堀宗甫の所作であるとしています。
以上、古書の2件は、細川幽斎又は三斎と、小堀遠州(=宗甫)が提唱したと記しています。
細川幽斎の長男が三斎です。
後年に掲げられている幽斎提唱説はどこから生じたのでしょう。
小堀遠州を含めた3人の概略を記してみます。
①幽斎とは、戦国武将の細川藤孝のことで、足利義輝・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、肥後細川家の家祖となり、古今伝授を受けて歌道でも名が知られ、茶道・能楽にも造詣が深かったといわれています。(細川家の永青文庫に幽斎筆の謡本あり=2020年夏季展出品リスト)
②三斎とは、幽斎の長男の細川忠興のことで、正室が明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)です。
利休七哲の一人に数えられる茶人で、三斎流の開祖となっています。
和歌・能楽・絵画にも通じていました。(永青文庫に三斎筆の花伝書抜書あり=同前)
③小堀遠州は、本名が政一で、宗甫と号し、将軍徳川家光の茶道指南も勤めて、遠州流を興しました。
また、造園家としても知られています。
3人とも茶道を通じた関係があり、幽斎か三斎のどちらかには決めかねます。
3人の生没年を見てみましょう。
幽斎:1534~1610年(77才)
三斎:1563~1646年(84才)
小堀:1597~1647年(51才)
小堀が4才頃に幽斎は亡くなっており、三斎と小堀はほぼ同じ頃に亡くなっています。
小堀との合作とすれば、幽斎よりは三斎のほうが自然と思われます。
また、小堀に公金流用の疑いがかかった時に、三斎たちが口添えして不問となった記録があり、小堀と三斎の関係深さも想像され、「謡曲十五徳」の三斎・小堀の合作は実際にあったように思われます。
以上を勘案すれば、「謡曲十五徳」の最初の提唱者は細川三斎と小堀遠州とするのが妥当と思われます。
その時期は両者晩年の作とすれば、1640年代と想定されます。
但し、江戸中期の大心筆の古書も、三斎と小堀両人没後50年以上も後の書で、「両作」と言い切ったあとに「両作之由」と続けており、現代語にすれば「二人の作とのこと」程度で、断定はできないようです。
後年の幽斎説は、三斎より有名として利用したのではないかと想像されます。
また、提唱者として小堀遠州の記載がほとんど見られないことについては、提唱者を二人並べる煩わしさからか、或いは、幽斎との併記を不自然と思って避けたからか、などと思われます。
提唱者を三斎とも幽斎とも記さないものは、幽斎説に疑問をもったか、あるいは明確な根拠を持てないから、昔からの伝承として敢えて触れなかったものと思われます。
結論としては、
「謡曲十五徳」の最初の提唱者は、「細川三斎と小堀遠州の二人として伝わるが確証はない」
ということになります。
また、細川幽斎作とする説は、根拠不明の誤りと思われます。
令和で4件が幽斎作と記しているのは、残念なことです。
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