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その他 能楽外縁観測 第3部-4 「能楽」と「謡曲」の用語について

2022-01-21

「謡曲十五徳」を調べると、様々な名称が出てきます。

300~100年以上前の古書では、
「謡十五徳」・「謡徳十利」・「謳徳十二條」・「謡有十徳」・「謡曲十五徳」・「奏曲十五徳」・「能楽十五徳」・「謡十徳」
などがありました。

令和の現在でも、
「謡曲十五徳」・「能楽十五徳」・「謡曲十徳」・「謡十五徳」
などと標記されています。

現在は、猿楽のことを能楽といい、能の詞章を謡うことを謡曲といっています。
うたい」・「うたい」・「奏曲」とは、謡曲のことを指します。

「能楽」と「謡曲」の用語は何時から使われるようになったのでしょう。
十五徳の内容の前に、この用語から検討することとします。
(十・十二の利・徳などは別に検討することとします。)

用語を説明するなら、「能楽」から始めるべきでしょう。
世阿弥の頃は「猿楽」と言われていました。
これを世阿弥は「風姿花伝・第四神儀編」で、能は神楽かぐらを起源としているとして、神の字からネ偏を除いて「申楽さるがく」とし、「楽しみを申す」意を込めました。
しかし、「申楽」の用語は一般には広まらず、江戸期を通じて同じ読み方の「猿楽」が通用していました。

「能楽」の用語が一般化したのは、能楽大辞典(2012年筑摩書房)によれば、明治14年(1881年)の「能楽社」設立以来のこととされています。

欧米視察に赴いた岩倉具視ともみ全権大使が日本を代表する楽劇には猿楽がふさわしいとしてその振興を随行員だった久米邦武らに命じ、その成果が「能楽社」設立でした。

池内信嘉のぶよしの「設立手続」には「前田斉泰なりやすノ意見ニテ、猿楽ノ名称字面じづら穏当ナラサルヲ以テ、能楽ト改称シ、因リテ能楽社ト名付ケ…」とあり、前年の設立準備会で九条道孝が発案したらしい、とあります。

また、「能楽」の語が江戸時代に、京観世五軒家の一つである浅野家8世栄足よしたりの著述に「能楽年表」「能楽余禄」があり、滝沢馬琴の著作にも「能楽考」があったが、一般には通用していなかったと記しています。

要するに「猿=モンキー」では格好が悪いので「能楽」にした、ということです。

ここで名の挙げられた人の生没年とその概略を見ておきます。

岩倉具視いわくらともみ
1825~1883年 京都の公家出身で明治維新十傑の一人。
欧米に特命全権大使として派遣されました。
副使には、後に初代総理大臣となった伊藤博文などもいました。

久米邦武
1839~1931年 佐賀藩出身の歴史学者。
岩倉使節団の一員として欧米視察。
同じ佐賀藩出身で1年先輩の大隈重信の招きにより早稲田大学で古代日本史や古文書学を講じました。
(大隈は総理や外務大臣等を務め、早稲田大学を創設した。)

池内信嘉のぶよし
1858~1934年 愛媛出身の能楽研究家。
能楽館設立。後の東京芸大教授。俳人高浜虚子の兄。

前田斉泰なりやす
1811~1884年 第13代加賀藩主。
宝生15世友于ともゆきから能を習い、演能もよくしました。

九条道孝
1839~1906年 旧華族の公爵。貴族院議員。四女が大正天皇の后・貞明皇后。
戊辰戦争で明治新政府の奥羽鎮撫総督として東北各地を転戦。

浅野栄足よしたり
1782~1834年 素謡すうたいを教える家の京観世五軒家の一つ。
江戸後期能楽史研究家。「観世家譜」などを著述。

滝沢馬琴
1767年~1848年
南総里見八犬伝などで著名な戯作者。

以上から、「能楽」の用語は江戸末期に特殊用例が見られ、明治になってから一般化が始まって定着してきたと言えます。


次に「謡曲」の用語を検討します。
現在では能の詞章を謡うことを指す言葉として一般に通用しています。
しかし、世阿弥の「音曲口伝」第2項では「うたいの本を書く…」、「申楽談義」序文では「うたいの根本…」などと著述しており、「謡曲」の言葉を使っていません。
また、うたいを「音曲」と書く例が多くありました。


謡曲つまり「うたい」を楽しむことは、室町末期の16世紀後半から京都を中心に広がり、謡本うたいぼんの写本が増大し、江戸期になると刊本が普及して大流行しました。

「謡曲」の語の初見は、江戸前期1658年刊の林羅山らざん(1583~1657)著「豊臣秀吉譜」の、下巻24丁表に「北條征伐五番ノ謡曲…」、同25丁表に「謡曲百番ヲ註解…」とあり「ヨウ」のカナをふって記されています。

この百番の註解とは「謡抄うたいのしょう」のことです。
これは、能の本を古典とみなした最初の注釈書で、豊臣秀吉の養子関白秀次が安土桃山末期の1595年に京都五山の長老や、当時の文化人を大動員して謡曲本文とその解説等を編纂させたもので、金春流謡本を底本に102曲を選んで著述されたものです。

江戸幕府が開かれる8年前のことでした。
それまで発音を大切にしてカタカナ書きだった文章を、漢字とひらがなにして書き、完成は1600年頃でした。

また、能楽大辞典では、1689年(江戸前半期)の竹中源右衛門・田中治右衛門刊「当流(観世流)謡曲集」を古い例として示し、江戸後半期1772年刊の注釈書「謡曲拾葉抄」(俳人犬井貞恕著・宜華庵忍金空にんくう増補)及び、1764年「謡曲閟言海」(閟はヒと読み、門を閉ざす意から、秘密と同義か。)を掲げていますが、「よう」の読みは定着していなかったとしています。

そして、1799年の宝生流最初の刊本謡本の寛政版奥付に「当流所伝之謡曲二百十番…」と記した頃から「謡曲」の用語が広がり始め、明治末以降になって、一般に多用されるようになった、とあります。
(少し要約しました。)

現檜書店前身の山本長兵衛(弘章堂)1823年刊の小謡集「昇平小謡万戸声」には「謡曲十五徳并注解」が載っています。
(口絵・挿絵は速水春暁斎〈1767~1823〉絵。)

「謡曲」を冠した古い本を国立国会図書館等で検索すると、大正期からの刊行が続いています。例示すれば次のとおりです。

1912:新謡曲百番(佐佐木信綱・博文館)
1914:謡曲集(野村八良校訂・有朋堂)
1922:謡曲集(塚本哲三編・有朋堂)
1923:謡曲百番(物集高量校注:新釈
   日本文学叢書第11巻)
1926:観世流謡曲続百番集(観世元滋訂・
   桧大瓜堂=現檜書店)

このように大正期には「謡曲」は書き言葉として一般に使用され、現在も名著とされる昭和5年(1930年)刊の謡曲大観(佐成謙太郎・明治書院)など、昭和期には普通の用語として使われるようになりました。
(但し、話し言葉としては現在も「うたい」が一般的に使われています。)


要約すれば、「うたい」を「謡曲」と書くのは、江戸期前から散見されて明治末以降から一般に広まり、「猿楽」を「能楽」と言うようになったのは、少し遅れて江戸末期が初めてで、明治になってから急速に一般化が始まった、ということになり、両者とも大正期を経て昭和初期の戦前には普通に通用していたことが分かります。

参考までに時代区分を示しておきます。
江戸:1603年~  明治:1868年~
大正:1912年~  昭和:1926年~
平成:1989年~  令和:2019年~


次の項目など、引き続き「能楽外縁観測第3部」をご覧になる場合は「謡曲の統計3」から進んで下さい。

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