その他 能楽外縁観測 第5部-1 世阿弥期演目とその後
2023-06-15
まずは世阿弥当時の資料5種について簡単に説明します。世阿弥の著作には20件余りがあり、能楽外縁観測第1部で紹介しましたが、当時の演目を想定させる資料についての概要を再掲しておきます。
一番有名な「風姿花伝」は、能楽理論の基本・総論を記し、年齢に応じた稽古の心得、役に応じた演じ方、能興行の成功法、能の歴史、能の作り方などを詳述して、「花」の美しさ・珍しさを追求して、後代への伝承を託しています。第一~第三編は世阿弥38才頃の応永7年1400頃までに成立し、第四~第七編は世阿弥59才頃の応永29年1422頃までに繰り返し推敲されて完結していました。
「三道」は能の作り方を体系的に精緻に記したもので、世阿弥60才頃の1423年2月には成立していました。
「三十五番目録」は、1425頃に世阿弥から娘婿の金春禅竹に相伝された謡本の目録です。現在の研究では、35曲を一括して渡されたとは思われておらず、何回かに分けられ、一部(トモアキラ・ヨロホシ・竿ノ哥之能)は後代の追記と言われています。(この項は初めて掲載)
「申楽談義」は世阿弥の次男元能が出家に際し世阿弥の芸談を筆録したもので、正式には「世子六十以後申楽談義」といいます。世阿弥67才の1430年11月編で、当時の能楽事情を知る第一級資料となっています。
「五音」は曲名を例示しながら謡い方を詳説した、世阿弥69才頃・1432年頃の著書です。作詩や作曲者を掲げており、氏名の記されていない曲は世阿弥自身が作ったとされています。能作者を決定する第一級資料となっています。
補足ですが、世阿弥伝書は秘伝として伝存し、世阿弥没後525年を経た明治42年1909に新潟県出身の吉田東伍「能楽古典・世阿弥十六部集」の刊行まで、一部を除きその存在も世に知られていませんでした。その後も伝書発見が相次ぎ、全容が明らかになるのは、表章オモテアキラ他校注「日本思想体系・世阿弥禅竹」(岩波書店)昭和49年1974の刊行まで待たなければなりませんでした。
以上が世阿弥期の演目を想定する資料となります。
以下は、表章「能の変貌―演目の変貌を通して」(1990.9/27法政大学学術機関リポジトリ参照)の論文(全18頁)からの紹介です。
【観阿弥・世阿弥父子による「能」大成以前の演目は殆ど不明である。
一番古い貞和5年1349「春日若宮臨時祭記」は、曲目の内容記録で、曲名は記されていない。「曲名」の成立は応永20年1413以降と考えられ、「能」という語の成立もほぼ同じ頃と思われる。
世阿弥伝書等から想定される世阿弥当時に演じられた「能」は138曲あり、先輩の演じた能について語った曲や、当時既に廃曲となっていた曲も多くある。内訳は、散佚サンイツ曲22、継続上演曲65、後世再興曲24、詞章の残存する廃曲27曲となっている。なお、散佚22曲の約半分は世阿弥期に既に廃曲となっていた。曲名は別掲の通り。】
つまり、世阿弥が50才頃に風姿花伝第四~第七編の推敲を繰り返していた応永20年1413年頃に「曲名」・「能」という語が成立したとしています。
当時の資料から想定される演目としては、散佚曲を含め138曲を挙げています。このうち継続上演曲の65曲は、能楽諸家(シテ方5流・ワキ方3流・囃子方9流)が江戸初期に幕府へ提出した「寛文元年1661書上カキアゲ」にも同じ曲名が記され、今に伝存して現行曲となっています。後世再興の24曲は、世阿弥期に演目であった曲が一時中断されながら、江戸中期に再興され、大般若(三蔵法師)・伏見(伏見翁)の2曲以外の22曲は全て現行曲となっています。詞章が現在にも残存する廃曲の27曲は、そのまま全て非現行曲になっています。しかし、多度津・布留・松浦・吉野などは、現代において複曲上演の種となっています。
世阿弥期演目のその後をグラフにすると、次のとおりです。

世阿弥当時演目138曲のうち、63%の87曲(65+22)が、600年後に現行曲として伝存していることになります。5流現行・全248曲の35%にあたります。(現行曲の曲数については、能楽外縁観測第1部に異称異字同曲などを整理して示しています。)
室町全期間で1000曲が作られたとされる中で、世阿弥期以後の室町中期・後期で作られた曲がどれほどあるかは分かりませんが、世阿弥期演目の過半数の曲が現行曲として残っているのは、驚異的に高い割合と考えます。それだけ、世阿弥期の演目は後世の高い鑑賞眼に耐えた名曲揃いだったと言えます。曲名を眺めると確かに現在でもよく演じられるポピュラーな曲や名曲とされる曲名が多く並んでいます。
ここでそれを示しますが、単に曲名を掲げただけでは当時の演目が現在で如何にポピュラーな曲として演じられているかをお分かり頂けないので、工夫して示すこととします。
現代における曲名別の演能記録のデータとしては、能楽外縁観測第2部-2で紹介した大角征矢氏の昭和25年1950から平成21年2009の60年間実績値を利用することとします。このデータは観世流の有料公演が対象で、208曲・7万2420回の内訳が公表されています。曲目としては、大典・三山・松浦佐用姫が対象外となっており、観世流以外のデータのない不備がありますが、他にこれほど長期に亘って全ての曲目を網羅した演能回数記録は他に見当たりませんので、これを利用します。
演能回数頻度は、曲目ごとの演能回数を60年間で割った、年平均演能回数として把握できます。これを頻度の高い曲と低い曲が分かるようにし、且つ曲名50音順で示すことにします。余り細かくするとかえって分かりにくくなりますので、次のように全体を4区分して、ABCDのグループで示します。そしてデータ集計対象外の曲をEグループとします。該当の曲数と全体での構成比を添えました。
A:非常に良く演じられる曲(毎年平均10回以上)45曲(18%)
B:良く演じられる曲(4回以上10回未満/年) 58曲(23%)
C:時々演じられる曲(1回以上4回未満/年) 64曲(26%)
D:稀にしか演じられない曲(1回未満/年)41曲(17%)
E:集計対象外の曲(観世流非現行等)40曲(16%)
なお、観世流で習い物の曲として大切にされ、名曲とも評価される曲をゴシックにしました。曲名は現行名を先に示し、古称・異称を( )書きしました。世阿弥期からの継続曲と、一時中断後再興された現行曲に分けて示します。


①では、現代における人気曲や名曲とされる葵上・清経・井筒・融・隅田川・班女・松風が並んでいるのが確認できます。
②ではゴシックの習い物や、蝉丸・歌占の、名曲が入っています。
しかし、現代で不動の人気曲となっている、羽衣・船弁慶・安達原・杜若・小鍛冶・天鼓・猩々などが①②で見当たりません。これらの曲は創作年代が下る関係もありますが、やはり現代と室町初期では演じられる「能」にも違いがあるようです。
【補足】各曲の成立年を確認すると、ほとんどの曲が世阿弥没年=1443年以前に成立していますが、全体の14%にあたる12曲が能楽外縁観測第2部で示した成立下限年では1444年以後となっていました。今回の資料は能楽研究の第一人者と言える表章氏の1990年の論文であり古書を調べた結果なので、この論文を見る前に示した第2部の年代は修正が必要となります。修正が必要な12曲について、第2部での成立下限年とその根拠古書に、表章氏指摘の古書等を添え、それによる修正年を記しておきます。
芦刈:1456歌舞髄脳記(禅竹著)→申楽談義1430・五音1432 綾鼓:1524能本作者注文→申楽談義1430 感陽宮:1524能本作者注文→永享元年1429演能 竜田:1470禅竹没年→三十五番目録1425 田村:1460五音三曲集(禅竹著)→三十五番目録1425 檀風:1465親元日記→申楽談義1430 唐船:1524能本作者注文→三十五番目録1425 東北:1470禅竹没年→三十五番目録1425 知章:1524能本作者注文→三十五番目録1425・久次奥書能本1427 野守:1505粟田口勧進猿楽記→五音1432 松尾:1483親元日記→三十五番目録1425 三井寺:1456歌舞髄脳記(禅竹著)→申楽談義1430
本節の最後として、世阿弥期演目であった曲で、詞章が残存していながら現在廃曲となっている27曲の曲名を示しておきます。言わば複曲の種になっていますので…。曲名に古記録等を付記しました。(能本作者注文=注文・自家伝抄作者付=自家・申楽談義談儀=談儀・三十五番目録=目録と略記)
阿古屋松:自家・議儀・能本 鵜羽:三道・談儀 逢坂盲(逢坂):注文・自家・禅鳳伝書・三道・談儀 笠卒都婆(重衡):自家・談儀 苅萱(禿高野):自家・五音 菅丞相?(天神):注文・自家・談儀 空也上人:注文・自家・談儀 維盛:注文・自家・目録・天文14年1545観世演能 実方?(西行):注文・自家・談儀・文正1年1466観世演能 敷地物狂(薦物狂):自家・永享4年1432演能 住吉物狂:目録 多度津:目録・能本あり 玉水:注文・自家・談儀・目録 丹後物狂(橋立):注文・自家・三道・談儀・五音・永禄7年1564丹波猿楽 鼓滝:注文・自家・談儀・永禄11年1569丹波猿楽 経盛:注文・自家・議儀・目録 二度掛(一谷先陣):注文・自家・寛正6年1465金春・永享元年1429演能 箱崎:注文・自家・三道・談儀・五音・天文20年1532金春演能 笛物狂:三道 布留:注文・五音・能本あり 松浦鏡(松浦):注文:能本あり 松浦物狂?(松浦):五音 守屋:注文・自家・談儀・天文22年1553丹波猿楽 安犬(笠間):自家・談儀 横山(草刈):注文・自家・談儀・禅鳳伝書・江戸初期金春所演曲 吉野(吉野西行):五音・目録・禅鳳伝書・江戸初期金春所演曲 吉野琴(吉野山):注文・五音
次回は、世阿弥期演目の現代人気度をグラフで示します。
引き続き第5部をご覧になる場合は、「謡曲の統計5」から進んでください。