勧進カンジンとは、人々に善行を勧めて仏道へ導くことが元々の意味で、奈良時代から寄進を受けるために僧侶などが行うようになったようです。
12世紀に入り鐘の鋳造や橋の修理などを目的とした資金集めとして広く行われるようになります。能「安宅」で有名な武蔵坊弁慶が読み上げる「勧進帳」は、奈良の東大寺再建を訴えて寄付を呼び掛けたものです。
琵琶法師が平家物語を語って寺社の改修費用を集める「勧進平家」は14世紀後半から始まり江戸期を通して盛んに行われました。田楽や猿楽も貴人や幕府の許可を得て勧進興行を行って収入を得るようになります。
世阿弥の頃には勧進猿楽が広まり、戦国期からは勧進相撲興行、江戸時代からは勧進歌舞伎も始まりました。
以下、能楽大辞典(2012筑摩書房刊・小林責等著)を参照し、部分的に補足しながら勧進能の概要を記します。
文献で見られる最初の勧進猿楽は、鎌倉後期・文保元年1317年に法隆寺惣社で催された記録です。室町時代における京都での勧進猿楽は大和猿楽の観世と金春が中心であり、宝生と金剛の例は非常に稀でした。大和猿楽以外では、摂津猿楽の榎並・春藤、丹波猿楽の日吉・梅若があり、他に京都の手猿楽(素人猿楽:渋谷・虎屋・堀池など)や西国から上京した女猿楽の興行も知られています。京都以外にも勧進猿楽が行われたと想像されますが、その事例は多くはありません。南都(奈良)では室町後期に勧進猿楽は催されず、その後も盛んではありませんでした。
大規模な勧進猿楽の1回目は室町初頭・①応永6年1399年に京都北野天満宮近く一条竹鼻で、将軍足利義満後援のもと世阿弥が催しました。
2回目は、室町初期・②永享5年1433年4月に祇園卒塔婆の造り替えを勧進の名目として音阿弥の大夫就任披露ために将軍足利義教が京都下鴨神社近くの糺タダス河原で催したものです。
3回目は、室町前期・③寛正5年1464年4月に鞍馬寺復旧造営が勧進の目的で、音阿弥とその子・観世4世政盛が将軍足利義政の全面的後援を得た糺河原での催しでした。
以上3回は3日間の興行で、勧進目的よりも観世大夫の披露に大きな意味がありました。なお、3日間は連続ではなく、天候などの都合で、次が数日後になることが普通的でした。この頃までの足利将軍の命による勧進興行は「田楽」が主流でしたが、①以降は田楽が衰退し、猿楽が主流となって行きます。
室町中期で大規模な勧進猿楽としては、④永正2年1505年4月に京都粟田口で金春大夫禅鳳が細川讃岐守成之の強力な助勢を受けた4日間興行があります。この頃から勧進能は4日間が定例となってゆきます。
勧進能を行う場所は、賀茂川の河川敷や寺院の境内など広大な空き地を使い、舞台を真中にして周囲63間(約114m)ほどの桟敷を円形に設けました。舞台と桟敷の間を大衆席としており、身分の差を超えて貴人と庶民が一緒に見物する貴重な場となっていました。
能楽大辞典では上の②③④の3件を室町期の代表的な勧進能としていますが、全部で何回行われたのかは書いていません。前節の表章論文も同様で、ネットで検索しても室町時代の勧進能回数は把握できませんでした。
次の図は、③寛正5年1464の舞台等を示しています。(元は横書きの図ですが、北を上にした縦長の図にしてあります。)舞台正面に公方(将軍)席、舞台を囲む円形状に大名・公家・僧侶たちの桟敷席、舞台真後ろ(南側)に橋掛りと楽屋が描かれ、1~3日目の番組も載せています。出所:賀茂御祖神社〈下鴨神社〉「糺勧進」HP/勧進能/糺河原勧進猿楽とは?/京都新聞平成26年6月14日「勧進猿楽 復活へ機運」付図(原本は観世文庫蔵)。






