これからは第5部-序で掲げた織豊期資料4種について、見ていくこととします。
4種とは、A.観世信光筆写本、B. 観世元頼系写本、C. 車屋謡本、D. 謡抄ウタイノショウのことでした。これらに所収された各100曲前後については、直接の演能記録ではありませんが、室町末期までに創作された謡曲が約1000曲に及ぶ中で、僅かに1/10程度の曲が選ばれていることから、また、「謡ウタイ」の流行が始まった時期であることから、これらの所収曲が演能状況とは無関係と思われず、間接的に演能曲を反映していると仮定して先へ進めることとします。
先ずは織豊初期のA.観世信光写本とB. 観世元頼系写本について見ることとします。
観世信光(1450-1516)は音阿弥の七男で小次郎とも称し、嫡男の長俊と共に能本章句改訂に関わり、30曲ほどを作能しました。現行曲として愛宕空也・右近・大蛇・九世戸・皇帝・胡蝶・玉井・張良・舟弁慶・紅葉狩・遊行柳・吉野天人・羅生門・龍虎など17曲を残しています。(第2部-10で現行曲多作第三位です。)また、道成寺の原曲・鐘巻の作者と言われています。華麗な扮装や大がかりな作り物に、ワキ方の活躍をはじめとして多数が登場するなど、ショー的スぺクタル的展開で戦国乱世にアピールする工夫が見られると評されています。また、晩年作の遊行柳は幽玄な詩情を醸し、才能豊かであったと評されています。(能楽大辞典参照。以下同様)
観世長俊(1488頃-1541頃)は25曲を作能し、現行曲として江野島・大社・葛城天狗・正尊・輪蔵を残しています。父信光の作風を継いで、空想的異国趣味などが強調されています。長俊以後、個性的作風を具えた能作者は現れず、室町後期で能は固定期に入ったとされます。
長俊の嫡男・観世元頼(1518-1573・宗節)は祖父と父の節付フシヅケ本に基づいて章句(節符号)を施し、その謡本83曲が現在各所に所蔵されています。これは現存する観世流謡本集として最古のものです。また謡ウタイに勝れ、9世観世大夫黒雪にも教えたと辞典は記しています。(83曲本の詳細はネットで確認できませんでした。)
野上記念法政大学能楽研究所の能楽資料デジタルアーカイブで「伝観世小次郎信光筆謡本」を閲覧すると、解題に【袋綴中本。伊達家旧蔵。観世小次郎信光の自筆とする正徳三年の観世大夫滋章の極めがあるが信じがたい。本文は元頼本の系統を汲み、戦国期と推定し得る数少ない揃本の一つとして貴重。】とあります。従って信光筆を否定し、孫の元頼晩年の室町末期・織豊期直前の1570年頃原本の写本と想定することとします。(従って第2部―2でこの写本を1510年としていたのは修正することとします。)
この曲目一覧では「あふひの上=葵上」など100曲が掲げられ、非現行曲の朝顔・黒主・丹後物狂・常陸帯・矢立鴨の5曲が含まれ、現行曲95曲を収めています。
もう一方のB. 観世元頼系写本を見てみます。野上記念法政大学能楽研究所の伊達家旧蔵能楽資料デジタルアーカイブで「堀池父子節付観世流謡本」を見ると、解題に【観世元頼系統の観世流謡本。天正四年1576年の堀池次介忠清(宗叱)本を主体に、堀池弥次郎忠継本や観世橘右衛門本の書写本等が混在する。いずれも天正頃写。堀池は永禄天正期に栄えた素人猿楽の家で、禁中や公卿の周辺で活躍した。】とあって、曲名一覧で74曲を集めています。このうち、右近・三井寺・屋島の3曲は重複しており正味71曲となります。非現行曲の朝顔・黒主・藤渡の3曲を除くと、現行曲は68曲となります。
現行曲のA.伝信光筆95曲とB.元頼系68曲を、曲目で照合すると全部で109曲となり、双方に所収が56曲、A.のみ所収が44曲、B.のみが15曲となります。これを世阿弥期演目・室町後半期追加演目・織豊初期2種謡本で追加の曲に分けてグラフにすると、次のとおりです。





