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その他 第6部-9 将軍宣下祝賀能について

2024-05-28

この節からは、将軍宣下祝賀能についてご紹介することとします。

ここで言う将軍とは征夷セイイ大将軍のことで、平安初頭の坂上田村麻呂サカノウエノタムラマロを先例として、鎌倉時代の源頼朝から始まり江戸末期まで一部の例外期間を除き連綿と任命されてきました。将軍は武家の棟梁と認められ、前後して三位以上の公卿にも任ぜられて、将軍を首班とする幕府の設置が許されてきたと解されています。

将軍宣下センゲとは朝廷が宣旨センジを下して征夷大将軍を任命する儀式のことです。1194年の頼朝の時から勅使が下されていましたが、鎌倉時代には遠方のためか宣下の儀式は行われなかったようです。室町時代の将軍宣下は初代足利尊氏の屋敷(二条城の東約1.5km)で行われました。江戸時代は初代家康(1603)から3代家光(1623)までは将軍が上洛して伏見城(京都市伏見区)に朝廷の勅使を迎えて行われ、4代家綱(1651)から13代家定(1853)までは勅使を江戸城に迎えて行われました。徳川1~13代は将軍が上座に座り、勅使が下座に座りました。しかし、幕末の14代家茂(1858)と最後の将軍15代慶喜(1867)の時は、将軍が上洛して下座に座りました。

将軍宣下祝賀能は室町・織豊時代には行われず、慶長8年(1603)の徳川初代家康の時が始めてで、以後、新将軍の門出を祝す祝賀行事として幕末の安政5年(1858)の14代家茂まで255年間に亘って継承されました。最後の将軍15代慶喜(1867)のときは行われなかったようです。結果として将軍宣下祝賀能は14回行われたことになります。(一部資料で室町幕府最後の足利義昭のとき(1568年)に将軍宣下祝賀能が行われたとされていますが、番組等の詳細を把握できませんでした。)

最初の将軍宣下祝賀能は、徳川家康が将軍に任命された時で、慶長8年4月4日・6日・7日の3日間にわたり、朝廷への返礼の意もあり、家康が京都に築いた二条城で盛大に催されました。

初日の演目等を見ると、初めに天下泰平・五穀豊穣・長寿を祈願する「」を観世大夫が演じ、続けて初番目曲(神様が登場する曲で「翁付きの脇能」と言う。)の「高砂」が演じられています(「翁」と「翁付き脇能」のシテは同じ大夫が演ずることになっています)。ついで「田村」(金春)、「芭蕉」(保生)、「山姥」(金剛)、「船弁慶」(観世)、「三輪」(金春)、「藤栄」(宝生)、「大会ダイエ」(金剛)と続き、最後に切能「祝言呉羽クレハ」(観世)で締められています。初日の計10番には、観世・金春・保生(宝生)・金剛の大和猿楽系四座の大夫父子が揃って出演しています。また、能と能の間には狂言が演じられました。

2・3日目は観世と金春だけが演じ、宝生と金剛の名はありません。(喜多は2代秀忠将軍の時に一座と認められ、3代家光の将軍宣下祝賀能から北大夫として登場します。)

家康の将軍宣下祝賀能初日の番組を野上記念法政大学能楽研究所の能楽資料デジタルアーカイブ/史料/観世元章編「将軍宣下御能目録」①で閲覧すると、次のようになっています。

以下は縦書き画面から読み取って横書きにしているので文字の配置や改行は不正確になっています。年齢は小文字で後代に加筆されたものと思われます。西暦年とシテ・ワキ・大鼓などの役名及び曲名ゴシックはブログ子の補記等です。また資料の解題を後で記します。

 後陽成院御在位之御時
○慶長八葵卯(1603)四月四日於二條御城家康公将軍宣下御祝儀御能
 家康公御歳六拾二
 面箱:日吉又右衛門 千歳:日吉  三番叟  鷺伊右衛門正次44才  脇鼓 弥石孫一郎
高砂 シテ:観世大夫身愛三拾八歳  ワキ:福王神右衛門正次  大鼓:観世勝次郎重政拾七歳  太鼓:金春彦九郎一峯二拾一歳  小鼓:観世新九郎豊勝拾五歳  笛:春日又三郎景道二拾六歳  間:鷺伊右衛門正次
 狂 餅酒 鷺伊右衛門正次  大蔵弥次郎虎清  長命甚六
田村 シテ:金春大夫安照五拾三歳  ワキ:進藤久右衛門忠次  大鼓:大蔵半蔵虎正三拾歳  笛:長命吉右衛門  小鼓:幸五郎次郎正能六拾五歳  間:大蔵弥太郎虎清
 狂 目近米骨 長命甚六  鷺伊右衛門正次  大蔵弥太郎虎清  日吉又右衛門
芭蕉 シテ:保生大夫勝吉  ワキ:三九郎  間:鷺伊右衛門正次  大鼓:威徳四郎次郎  笛:春日又三郎景道  小鼓:幸五郎次郎正能  間:鷺伊右衛門正次
 狂 飛越 大蔵弥太郎虎清三拾八歳  長命甚六  鷺伊右衛門正次
山姥 シテ:金剛大夫(子)  ワキ:高安與八郎  間:長命甚六
  自是雨天故狂言相止

以上は、野上記念法政大学能楽研究所の能楽資料デジタルアーカイブ/史料/江戸末期筆「将軍宣下御祝儀御能組」②でもほぼ同じ内容が確認できます。また、雨天中止となった初日の予定番組が②から次のように読み取れます。(中止となった狂言の記載は有りません。)

船弁慶 シテ:観世三郎直道十四歳  ワキ:福王神右衛門  大鼓:和弥助五郎  太鼓:金春彦九郎  小鼓:宮増弥次郎  笛:春日又三郎  間:大蔵弥太郎
三輪 シテ:金春七郎氏勝二十八歳  ワキ:進藤久右衛門  大鼓:大蔵平蔵  太鼓:金春又次郎  小鼓:大倉六蔵宣安二十八歳  笛:春日又三郎  間:大蔵弥太郎
藤栄 シテ:保生九郎(子)  ワキ:高安与八郎  大鼓:和弥助五郎  太鼓:金春彦九郎  小鼓:大倉六蔵  笛:春日又三郎  間:鷺伊右衛門
大会 シテ:金剛  ワキ:高安与八郎  大鼓:大蔵助三  太鼓:金春又次郎  小鼓:宮増弥次郎 笛:長命新蔵  間:日吉又右衛門 長命甚六 日吉与次郎
祝言呉羽 シテ:観世太夫  ワキ:福王神右衛門  大鼓:観世勝次郎  太鼓:金春彦九郎  小鼓:観世新九郎  笛:春日又三郎
 
以上で1日目が終わり、2日目、3日目と続きます。その能の曲名とシテ方担当流儀を記すと次のとおりです。(曲名をゴシックにしています。①②資料とも狂言の記載がありますが省略しました。)

2日目・4月6日雨天 翁・加茂(賀茂):金春、植田(非現行曲):観世、遊屋(熊野):金春、鍾馗:金春、源氏供養:観世、輪蔵:観世、烏頭(善知鳥):金春、春栄:観世、祝言金札:金春

3日目・4月7日 翁・養老:観世、実盛:金春、千寿(千手):金春、紅葉狩:観世、天鼓:観世、橋弁慶:金春、岡崎(非現行曲):観世、葵上:金春、唐船:金春、女郎花:金春、祝言老松:観世 (一部資料に岡崎葵上の順を逆とする記録あり)

注)資料によっては、初日の大会ダイエを大江山、2日目の加茂田植植田上田と記すものもあります。(田植・上田は非現行曲)

参)1603年当時のシテ方大夫の生没年等は次のようになっています。
 観世:9世左近身愛タダチカ1626年(寛永3年)61才没→当時38才頃
 金春:62世八郎安照1621年(元和7年)73才没→当時55才頃
 宝生:6世勝吉四郎左衛門1629年(寛永7年)73才没→当時47才頃
 金剛:10世右京勝元1610年(慶長15年)49才没→当時42才頃

資料解題(資料①②は観世新九郎家文庫蔵で、その解題を転記しておきます。)

観世元章編「将軍宣下御能目録」:袋綴美濃本(270×188mm)。浅葱色表紙。朱色題簽。徳川歴代将軍の将軍宣下祝賀能の詳細な番組。役者の諱・年齢を注記している場合も多い。慶長八年1603の家康(三日間)から宝暦十年1760の十代家治(五日間)までの分。装訂も書式も観世宗家蔵の『雲上散楽会宴』(禁裏能の番組集)と同じであり、同書と同じく観世元章編と見られる。②江戸末期筆『将軍宣下御祝儀御能組』(観世新九郎家 五38)を書写するため に観世宗家から借り出したままになった本であろうか。←初代~10代までを記している。

江戸末期筆「将軍宣下御祝儀御能組」:袋綴半紙本(220×150mm)。水色地格子模様表紙。斐紙題簽。①観世元章編『将軍宣下御能目録』(観世新九郎家 五37)の転写本。数十丁の余白紙を残し、裏表紙見返しに「豊成(花押)」と署名がある。←①同様に初代~10代までを記している。

13代家定の番組は、野上記念法政大学能楽研究所/能楽資料総合デジタルアーカイブ/法政大学鴻山文庫/「尾上千五郎家旧蔵幕末能組集」(資料番号五三64)をビューワーで閲覧できました。その解題を転記しておきます。

『袋綴横本(123×175㎜)。嘉永三年から嘉永七年までの江戸城における八十回に及ぶ催しの記録。昭和に入っての転写本であるが、現在原本の所在は知られておらず、幕末の江戸城の番組として貴重。嘉永六年の家定将軍宣下能など、表能の番組もいくつか見えるが、『触流し御能組』には見えない奥能・奥囃子の記録を多く収めるのが特徴。中には奥能に向けてのリハーサルと思しき催しも含まれる。一催能の日付の下に「七ツ半時揃」「革足袋被下」などの注記があり、催しに出演した役者側の記録と思われる。識語によれば、昭和十一年三月に柳沢澄が尾上千三郎蔵本を書写し、同年十一月に春日市右衛門本をもって校合した本。尾上千三郎は明治・大正期に活躍した下掛り宝生流の脇役者で、昭和四年に引退した人物。』


次回は11・12・14代将軍についての祝賀能を含め、2024.6/15に第6部-10「将軍宣下祝賀能の演目など」を掲載する予定です。

引き続き第6部をご覧になる場合は「謡曲の統計6」から進んでください。

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