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その他 第7部-3 3家光期・4家綱期・8吉宗期&幕府への書上げ

2025-02-20

次に江戸時代初期の第3代将軍家光期のグラフを示します。
家光期も直前の秀忠期の年間平均演能番数をほぼ維持しています。グラフの形から見ると秀吉/家康期に戻ったようです。全体の曲数は秀忠期とほぼ同じですが、ごく限られた曲目が上位ランクを占め、多くの曲が最下位ランクに集中しています。

「翁」を除く上位21曲のうち17曲が前期までの上位曲に登場しています。新登場は「海士・芭蕉・熊坂・藤栄」の4曲です(演能番数順)。このうち「海士・熊坂」は現代60年間で50位以内の人気曲であり、「芭蕉」は147位となっています。なお、「藤栄」は当時も現在も観世流を除く4流での演目となっています。

また、三期連続上位が9曲もあります。その内訳は「高砂・猩々・船弁慶・自然居士・道成寺・熊野・善界・三輪・実盛」で、全曲が現代の上位100位以内に入っており、ゴシックの6曲は30位以内の超人気曲となっています。
前2期連続で上位を占めた「松風・江口・葵上・山姥・百万」は何故か家光期では17回以上演じられて50位以に入っていますが、上位21位までには入っておりません。しかし、現代ではゴシックの曲は「葵上」の2位をはじめとして31位以内の超人気曲となっています。「江口」も87位で良く演じられています。

家光(1604~1651没・在職1623~1651)は父秀忠の正妻(信長の姪・浅井長政の三女「江」)の子で、将軍就任に際し「余は生まれながらの将軍である」と述べたと伝わります。弟の国松と後継争いがありましたが、乳母・春日局の家康への訴えにより、長幼の序から将軍に就き、家康を崇拝していました。この時期に参勤交代・日光東照宮造替・島原の乱・鎖国・寛永大飢饉・田畑永代売買禁止などがあり、家光は伊達政宗を慕って厚遇したといわれています。

次は江戸前期に当たる第4代将軍の家綱期のグラフです。
家綱期は演能番数が「翁」を入れて516番、演目数が105曲と大きく減少した期間となっています。前の家光期より能楽への関心が低下したように思われます。

秀吉/家康期からこの④家綱期まで4期連続して上位曲に並ぶ曲は「翁」を除いて「高砂・猩々・舟弁慶・自然居士・三輪」の5曲となります。しかし「自然居士・三輪」は前3期の演能頻度に比べると大きく低下しています。また前3期で連続して上位だった「道成寺・熊野・善界・実盛」は家綱期では5~6回演能の35位前後にとどまっています。全4期中で3期共通に上位となった曲を現代順位も添えて示すと、「賀茂61・田村29・松風17・屋島75・紅葉狩40・江口82」の6曲となります。これらの曲は現代でも良く演じられていることが分かります。

また、これまでの上位曲になかった「羅生門・張良・橋弁慶・現在鵺・東北・柏崎・兼平・通盛・白髭・野宮・頼政」の11曲が今期上位に新しく登場しています。このうちゴシックの4曲は現代で78位以内の人気曲となっていますが、ほかの7曲は100位以下となっており、特に「羅生門・白髭」は183位以下と稀な曲となっています。以上から家綱期では演能回数を1/4以下に減らしながらも曲目数は維持した期間と言えます。

家綱(1641~1680没)は10才で将軍に就き、保科正之など家光期の家臣の補佐で前三代の武断政治から文治政治に替えたと云われています。この時期には明暦大火・両国橋建設・相撲発展などのトピックスがあります。(家綱の将軍在職期間は1651慶安4年~1680延宝8年の28年9ヶ月ですが、演能データは後半13年間の記録が欠けたものとなっています。)

次の徳川第5代将軍は綱吉で、将軍在職期間は江戸時代前期にあたる1680延宝8年~1709宝永6年の28年5ヶ月になりますが、演能記録データが無いのでグラフを示すことができません。

綱吉(1646~1709)は家光の四男として江戸城で生まれ、4代家綱の弟でした。上野館林藩主の時に宝生流を嗜み、元禄期(1688~1704)に宝生流は隆盛を極めます。その幕開けが1687貞享4年の宝生9世将監友春の一世一代勧進能(江戸・本所)でした。そして金沢前田藩・尾張徳川藩が新たに宝生流を採用しました。前田藩では喜多流だった諸橋家・金春流だった波吉家を転流させており、加賀宝生の基盤を作った時代となっています。(江戸時代の勧進能については別に紹介する予定です。室町時代の勧進能は、第5部-8~9をご参照下さい。)この期間のトピックスに「生類憐みの令」・元禄赤穂事件(忠臣蔵)・芭蕉の「奥の細道」などがあります。

また、浄瑠璃が脱皮して発展したのも元禄期でした。従来の古浄瑠璃を圧倒し、竹本義太夫(1651~1714)等の活躍で新浄瑠璃(当流)に替わりました。さらに、現代に繫がる歌舞伎も大成されました。市川團団十郎(1660~1704)や坂田藤十郎(1647~1709)の初代が登場し、近松門左衛門(1653~1725)が浄瑠璃・歌舞伎の作者として支えています。

ここで、「書上カキアゲ」について触れておきます。徳川幕府が能楽諸家に命じて、各家の由緒・経歴・能などの作者・曲名名寄ナヨセ・拝領物などについて「書上」として報告させたものです。まとまった「書上」で最も古いものは、江戸初期・4代家綱期①「寛文元年(1661)書上」(シテ方5流・ワキ3・笛2・小鼓3・大鼓2・太鼓2)があり、5代綱吉(1680~28年間)・6代家宣(1709~3年)・7代家継(1713~3年間)の60年間を経て、江戸中期・8代吉宗就任5年目の②「享保6年(1721)書上」(シテ5・ワキ5・笛3・小鼓5・大鼓6・太鼓3・狂言4・弟子筋囃子7家)の2例が代表的なものとなっています。「書上」は各家から4ヶ月にわたって別々に提出されたので、まとまった形の伝本は存在せず、後世に書写されたものが観世文庫や法政大学能楽研究所に伝存しています。

この「書上」が表章オモテアキラの「能の変貌―演目の変貌を通して」(1990法政大学学術機関リポジトリ)の論文で、をシテ方から囃子方各家に至るまで曲名ごとに対照させて掲示されています。そして、シテ方が提出していない曲を囃子方で掲げた曲があったり、シテ方が挙げた曲でも囃子方で揃っていなかったり、さらに、演能記録のある「鉢木」が①に掲出されていないことなどを指摘し、①については初めてのことで提出者(流儀代表者)によって曲目選択に幅があったようだと説明しています。しかし、江戸前半期で、各当事者がこれだけまとまった資料を提出した例は他になく、貴重な資料となっています。この間のシテ方曲数の変化を見ると次のとおりです。(ワキ方や囃子方掲出など全230曲からシテ方分を曲名ごとに集計したもので、表論文での記述曲数と違いがあります。)

1661寛文①→1721享保②のシテ方曲数比較
シテ計:173→222曲(49曲・28% 増)
観世:106→124(18曲・17% 増)
金春: 90→ 96( 6曲・ 7% 増)
宝生:122→155(33曲・27% 増)
金剛: 99→105( 6曲・ 6% 増)
喜多:151→157( 6曲・ 6% 増)

シテ方の曲数増加を見ると、5流全体では49曲・28%の増加となっていますが、流儀ごとに見ると大きな差があります。一番多く増えたのは宝生で、33曲・27%増となって5流の中で最多の155曲を数えるようになっており、綱吉の宝生贔屓ヒイキが影響しているようです。観世は18曲・17%増で曲数も124曲に納まっており、金春・金剛・喜多は各6曲増(4~7%増)の微増です。なお、喜多は前節で紹介したように②秀忠期で認められたばかりの座で、当初から151曲を挙げていた事情があります。また、金春は増加も少なく、曲数も最少の96曲となっています。

享保書上において曲目数の増加で注目されるのは、1流だけ採用の曲が35曲あり、2流で共通して採用の曲が13曲で、3流以上で採用の曲は1曲だけの増加となっていることです。つまり、増加した曲は、通用曲以外の珍しい曲が殆どを占めていることを示しています。但し、3流以上で採用の1曲だけ増加したのは、金春以外の4流が採用した「鉢木」であり、現在、観世流で習い物の曲で現代119位を占めて、謡い物の名曲となっています。

この間で増減した曲名を掲げると次のとおりです。(50音順)

・①→②で廃止された曲=11曲;朝顔・愛宕空也・空蝉・鵜羽・木曽願書140・鈴木・丹後物狂・鳥追舟165・箱崎・横山・吉野(ゴシックの2曲はその後に復活した現行曲。曲名に添えた数字は現代60年間での演能回数順位)

・①→②で追加された曲=49曲; *綾鼓・淡路175・碇潜172・雨月126・右近167・歌占99空蝉・鵜祭・江野島189・大原御幸97・*大蛇・*葛城天狗・合浦173・砧46・*草薙・恋重荷70胡蝶81・*佐保山・逆矛188・三笑151・俊寛27俊成忠度112・代主207・住吉詣184・*関原与一・摂待176・蝉丸38・大瓶猩々152・忠信201・第六天193・千引・土車181・錦戸204・二人祇王・寝覚195・鉢木48伏見・*富士山・豊干・枕慈童(菊慈童)39・*松尾・三山・*御裳濯・室君187・求塚92弱法師18・龍虎168・輪蔵191(ゴシックの6曲はその後に廃された非現行曲。下線は後述。曲名後の数字は現代での順位。*印は現行非観世流で現代演能回数調査対象外。「三山」は2000年に観世が復曲採用で現代調査対象外)

表論文では、⑤綱吉・⑥家宣の希曲好みの影響で、演目の拡大が進んだと指摘しています。しかし、上の追加曲の中には現代60年間で100回以上演能のアンダーラインを付けた曲が13曲も含まれており、希曲だけではなく現代で毎年1~2回は演じられる人気曲を発掘した面のあることも見逃せません。

表論文は綱吉について、「徳川綱吉の能狂ぶり」の項で次のように指摘しています。(以下抜粋。西暦はブログ子が挿入。)

『落ち着いていたかに見えた能の演目が、元禄(1688~1704)前後になって激変する。原因は五代将軍綱吉の稀曲好みである。綱吉の能狂ぶりについては『能楽の歴史』にやや詳しく述べたので、それを参照されたい。『隆光僧正日記』の記事(綱吉お気に入りの僧だった隆光が、仁和寺の寛隆法親王に綱吉に仕舞〔今の舞囃子〕拝見を願い出るよう勧告し、柳沢吉保を通してそれを実現している)からも知られる周囲の迎合が、彼の能狂に拍車をかけたようである。養子で後に六代将軍となった家宣も養父に調子を合わせて西丸で能に熱中し。江戸城では文字通り一二日にあげず能か囃子が催されていた。』

そして、綱吉・家宣周辺の能にしばしば演じられた稀曲として次の例を示し、論文では『綱吉や家宣自身が舞うのはほとんど通行曲であり、強制的に士分に取り立てた廊下番(後に土圭之間番)をも含む能役者や、近臣や小姓たちに、以前には演能記録のない稀曲・珍曲を舞わせている。綱吉を接待する饗応能に稀曲が選ばれている点からも、綱吉がそれを見ることを好んだための稀曲流行には違いあるまい。』と記述しています。(通行曲を除き、表氏指摘の希曲と、綱吉・家宣が演じた曲名を記しました。ゴシックは現行曲です。数字は現代順位、但し「―」は調査対象外。)

【希曲の例】
綱吉御成オナリ饗応能
◇1694元禄7.2/3(柳沢出羽守邸御成接待能)逆鉾188・追掛鈴木・住吉詣184・郭巨
◇1696元禄9.2/11(柳沢出羽守邸御成)富士山-・草薙-・大瓶猩々152

綱吉主催本丸能
◇1696元禄9.8/25(御座間能御台様御覧)生田敦盛163・愛宕空也-・大瓶猩々152(他に綱吉が演じた曲:白髭183・江口82・安宅47)
◇1697元禄10.閏2/6(御座間能姫君様御覧)輪蔵191・降魔・菊慈童39・碁(他に綱吉が演じた曲:氷室161・善界85・鶴亀76)

家宣主催西丸能
◇1708宝永5.3/10(御内証御能組)竜頭大夫・伍子胥・湛海(他に家宣が演じた曲:半蔀12・葵上2・鞍馬天狗52)
◇1708宝永5.9/13(同前)橘・碇潜172・住吉詣184・太施太子(他に家宣が演じた曲:芦刈68)

表氏指摘の希曲が19曲あり、8曲が現行曲として伝存せず、3曲は観世非現行で現代演能回数調査対象外となっています。残る8曲の現代順位を見ると、「菊慈童」の39位を例外として、他の7曲は全207曲中で152~191位に低迷しており、希曲揃いと言える状況になっています。

また、表氏の論文「演目への影響」の項では次のように記述しています。(要約してあります。)

『綱吉や家宣の要望に応えて、五流の大夫は演目の拡大に向かわざるを得なかった。宝生大夫が提出した享保書上には、綱吉と家宣に命じられて演じた曲が掲げられている。その付記に演じる5~6日前に下命があり、謡を覚え、形付を工夫し、囃子事を整備する作業を、数日の間に済ませざるを得ないあわただしい復曲だった。(他の流儀でも同様の下命による曲名が挙げられています。) 内百番・外百番の他に、三百番本・四百番本・五百番本も刊行されており、稀曲の詞章は容易に得られた。番外謡本の刊行自体が綱吉の稀曲好みの反映らしい。』(参;内百番謡本は金春が1596慶長1年頃、観世が1609慶長14頃に、外百番謡は観世が1657明暦3、金春が1686貞享3、以下観世で三百番本を1686貞享3、四百番本を1689元禄2、五百番本を1698元禄11年にそれぞれ刊行しています。宝生は1605年頃の写本・100番本が伝存しています。その後、喜多流は1776安永5年に150番本、宝生流は1799寛政11に210番、金剛流は1882明治24年に100番本を刊行しています。詳細は第1部-9「謡本年表」参照)

さらに、論文では1681天和元年~1713正徳3年(家宣没年)の33年間の御内緒御能組など11種以上の資料を調査した全230曲の曲名を挙げて、寛文書上にない希曲が200曲を超え、試演もあろうがほとんどが新たに演じられたという、驚くべき現象と指摘しています(希曲名の掲出は省略しました)。 また、鳥取池田藩の池田吉泰の異常な稀曲好みも綱吉の影響に相違ないとして、49曲の名を挙げています。但し、禁裏や仙台藩の能にも将軍の稀曲好みの影響が見られるが、熊本藩の藩内での能には稀曲が演じられていないとして、その影響は藩と所によって差があった、と記述しています。

続けて表論文は、綱吉の演目開拓での貢献を次のように記述しています。
『綱吉・家宣の稀曲好みは能界に大きな影響を与え、所演曲と然らざる曲との境目が不明確になってしまったが、結果的には、室町末期からの演目淘汰の傾向に転換をもたらした。当時演じられた稀曲が、多くは再度の中断を経てであるが、現今の演目として生きている。シテ方流儀で一時的にもせよ演目になった曲が91番に達するのである。綱吉は演目の開拓の面では大きく能に貢献したと言えよう。』

次の6代将軍家宣の1709宝永6年~1712正徳3年の3年5ヶ月と、7代将軍家継の1712正徳3年~1716享保元年の3年1ヶ月の計6年6ヶ月の期間は、演能記録データが欠けています。

6代家宣(1662~1712没・在職1709~1712)は家光の孫で幼名が綱豊でした。48才という徳川将軍としては最高齢で就任して、在職3年余の短さで没しています。先代綱吉の希曲好みを引き継ぎ、生類憐みの令の一部を廃止しました。

7代家継(1709~1716没・在職1713~1716)は家宣の四男として江戸城で生まれ、兄たちが早逝して、5才で将軍に就き、その3年後に没しています。この間に未亡人となった母(月光院)に関わる大奥の江島・生島事件が起こっています。次期将軍は吉宗となります。

家宣・家継の時代は新井白石を重用した復古原理主義的文治政治で「正徳の治」(1709~1716)と称されています。(正徳は1711~1716)

次に江戸時代中期の徳川8代将軍吉宗期のグラフを示します。将軍在職期間は1716享保元年~1745延享2年の29年1ヶ月になりますが、演能記録データが1721年からになっているので、始めの5年間ほどのデータが欠けた約25年間となっています。
上のグラフで注目されるのは「屋島」が第1ランクにあることです。④家綱期で第4ランクに入っていましたが、それまでは第18ランクが2回で、上位曲から外れた期もある曲が演能回数トップになったのです。吉宗の武士道への傾倒が影響しているようです。「屋島」は義経ヨシツネを主人公としながら、前場で景清カゲキヨと三保谷ミオノヤの一騎討を語り、後場で海に落とした弓を命がけで取り戻す場面があり、それは弱い弓の持ち主と敵に侮アナドられたくなかったからでした。そして終曲部で壇ノ浦の船戦フナイクサを描く名曲となっています。また、小書コガキの「那須与一語ナスノヨイチカタリ」で狂言方が活躍することもあって、現代で35位の超人気曲となっています。

吉宗期の25年間で「翁」を除く上位27曲には前4期の上位曲にない曲が10曲もあります。当期で24~18回演能の「安宅47・箙111・烏帽子折150・春日龍神108・忠度64・竜田89・経正42・難波159・羽衣1・氷室161」(数字は現代の順位。以下同様)です。特筆すべきは現代でダントツ1位の「羽衣」が初登場しているなど、現代でよく演じられる曲が多く入っています。綱吉の希曲好みの影響なのか、新しい曲が採用された雰囲気が感じられます。(新しい曲としていますが、この中で新しい「羽衣・箙」でも1524年以前成立の曲となっており、全曲が室町時代創作の曲ばかりです。)

ここまでの秀吉/家康~家綱期の5期で共通する上位曲には「翁」を除いて「高砂23・猩々9・舟弁慶3・三輪30」の4曲があり、曲柄では5番目曲が2曲を占めています。また、前期までの4期で上位曲だった「自然居士73」に加え、当期までの4期で上位共通は「賀茂61・道成寺26・熊野13・田村29・屋島35・江口82」の7曲となり、初番や5番目曲が含まれていないことも注目されます。

また、秀吉~家光期までの上位曲に登場しなかった曲で、直前の家綱期に続いている曲が「橋弁慶78・頼政63・兼平142・東北62」の4曲があり、ここにも初番や5番目曲が含まれていません。この4曲は現代で「兼平」を除くと、比較的に良く演じられる曲であることが分かります。


上位曲に限らずに見ると、徳川初期4代で演じられていない曲で、吉宗期から新しく演じられた曲に次の40曲があります。(数字は現代の順位。「-」は調査対象外。)

綾鼓-・淡路175・碇潜172・生田敦盛163・浮舟139・雨月126・鱗形-・江野島189・*烏帽子折150・姨捨148・大原御幸97・合浦173・46・玄象66・恋重荷70・小督53・佐保山-・鷺114・志賀200・俊寛27・*俊成忠度112・代主207・住吉詣184・誓願寺145・関原与一-・蝉丸38・草紙洗小町90・第六天193・竹雪-・忠信201・土車181・道明寺179・半蔀12・花筐33・富士山-・放生川208・巻絹19・松虫93・三山-・*六浦149」

このうち下線の20曲は、先に紹介した寛文から享保の「書上」で追加された49曲の中に含まれています。また、ゴシックの11曲は現代60年間で577回以上の演能があり、現代上位50%以内の曲となっており、先に記した「綱吉の希曲好み」の影響で人気曲が育った証左となっています。なお、*印の3曲は現代でやや演じられる回数が少なくなっていますが、江戸時代後半期では良く演じられた曲となっています。

吉宗(1684~1751没・在職1745~1760)は家康の曽孫で紀州徳川光貞の四男として生まれ「暴れん坊将軍」で知られています。新井白石を罷免して水野忠之(後世の忠邦とは別人)を老中に任命、大岡忠相を登用するなどして、「享保の改革」といわれる新田開発・町火消・目安箱・小石川養生所などを進めました。しかし、武芸奨励や極端な質素倹約・大奥縮小・増税により、百姓一揆を招くなどして経済・文化は停滞しました。

次回は、2025.3/15に江戸時代後半期の演能状況を、第7部-4「9家重期・10家治期・11家斉前期&観世元章」として掲載する予定です。

引き続き第7部をご覧になる場合は「謡曲の統計7」から進んでください。

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