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その他 第7部-4 9家重期・10家治期・11家斉前期&観世元章

2025-03-06

では江戸時代後半期の始まりにあたる、徳川第9代将軍・家重期のランク別曲数のグラフを示します。
9代家重期は全体の曲数は174曲と極端に少なくなってはいませんが、「翁」の36回を除くと、最多の「賀茂」で10回の演能しかなく、30ランクに分けた結果、各ランクに該当する曲が飛び飛びになっています。

ここまでの6期で連続して上位となった曲は「高砂23・猩々9」(数字は現代順位。以下同様)の2曲しかありません。初番と切能の曲となっています。当期で「翁」を除く上位の20曲のうち、前の吉宗期から続く曲が14曲あり、残りの6曲は、今期初めて上位に登場の「鞍馬天狗52・嵐山107・六浦149」と、江戸初期から前期までで3期は上位曲に入っていた「実盛94・善界85・紅葉狩40」となっています。また、これまで6期中の5期で上位となった曲は「舟弁慶3・賀茂61・熊野13・三輪30・田村29・屋島35」6曲だけで、さすがに現代でも超人気曲となっています。家重期は先代吉宗の曲をベースにこれまでの上位曲を多く演能させ、新しい曲を少しだけ取り入れたと言えます。

家重(1712~1761没・在職1745~1760)は吉宗の長男で将棋と能を好み、言語障害のために大岡忠光(大岡忠相の子孫・1709~1760)を御側御用取次(≒通訳)に任命・重用し、吉宗期で増税等を進めて異母弟の田安宗武(8代吉宗の三男・1716~1771)を将軍後継に推した老中の松平乗邑(1686~1746)を罷免して、酒井忠恭(1710~1772)を登用しました。また、田沼意次(1719~1788)などを任用して幕閣を若返らせ、予算制度・酒造緩和などを進めました。しかし、「田沼時代」とも言われる税収策等は商業など経済全般に及びましたが、場当り的政策が多く、賄賂の横行もあって、次の家治将軍の死去で閉幕します。

ここで観世15世元章モトアキラ(1722~1774)について紹介しておきます。

元章は観世14世織部清親の長男で、家重と次の家治将軍の能楽指南役を勤め、観世流中興の祖と評されています。元章のエピソードを「徳川実紀」(江戸幕府公式史書・1844天保14成立)に見ることができます。元章がまだ10代の家治将軍にあまりに厳しく能の稽古をしたために,家治が立腹したという逸話が載っています。1750寛延3年には江戸筋違橋で15日間にわたる未曾有の大勧進能の興行が許され、自ら43番の能を舞っています。(江戸時代の勧進能については別途に掲載します。)

この流勢を反映して1752宝暦2年には弟の織部清尚(1727~1782)の分家が認められて四座一流に次ぐ地位が与えられ、現在の観世宗家の分家=銕之丞家の祖となっています。(清尚は1774安永3年に分家から宗家に戻って観世17世を継承しています。観世16世は、9世身愛の孫で服部惣佐衛門直時の子=三十郎章学〔1741~1792〕が元章の娘婿となって元章の逝去後に継承しましたが、病身のため6日間で大夫を清尚に繋いでいます。)

また、元章は万葉集や古事記などを思料し、世阿弥伝書等を収集・書写して考証・注釈を加えています。そして、家重・家治両将軍と田安宗武(8代吉宗の三男・1716~1771)の後援や、国学者の加藤枝直(1693~1785)や俳人で考証学者の寺町百庵(1695~1781)らの協力を得て1765明和2年に「明和改正謡本」を刊行しています。

これは、当時の観世流所演160曲から「曽我物語」など7曲を除き、世阿弥伝書等で見られる「阿古屋松・松浦鏡・佐用姫・布留(以上非現行曲)・水無月祓(現行曲)」などの復曲と、自ら新作した「梅」(観世流現行で重習いの曲)など57曲を加え、内組100曲、外組100曲、習い10曲の計210曲を選び、フリガナや詳細な節付け記号のほか、型・扮装・作り物・小書など全演出での大幅な考案・改革でした。併せて能作者付の「二百十番謡目録」1冊、「翁」の謡9種の「九祝舞」1冊、「独吟」9冊、間アイ狂言の台本「副言巻」13冊を刊行しています。

しかし、大幅な復古的改訂が不評で、詞章は元章の逝去3ヶ月後に家治将軍の意向が側衆の稲葉正明(1723~1793)や田沼意次(前出)の勧告によって出され、直ちに清尚宗家が改正謡本の廃止を通告して廃止されました。復古的の例としては、現行観世流謡本(1940昭和15大成版)「梅」の前付けに「梅の楉ズワエ・大御オオミ儀ヨソイの御庭ミニワ・仕ツカん奉マツれる・見まほしく・年の端ハの大嘗オホナメに・昔の髻華ウズの心ばせ・冠カウムリの・鬘垂カヅラシで・神酒ミキたうべ」を挙げ、世阿弥作「東北」の「所は九重の、東北の霊地にて、王城の、鬼門を破りつつ」と比較して、時代錯誤の印象を与えると記しています。結局、改正本は9年弱の使用に終わり、観世14世清親時代の謡本に戻りました。

但し、一連の工夫・考案等は以後の観世流の曲目・詞章・発音・節付などに大きな影響を与え、特殊演出の「小書」など演出面の多くが現代に受け継がれています。また、明和本で新収された曲の中から、1783天明3年までに10曲が、幕末から明治にかけて10数曲が復活しています。そして、家元制度の充実に努め、習い事や伝授事を整理した成果は、現在の観世流が他流に比して多彩な演出となって活かされ、観世座が四座一流の筆頭としての地位を不動のものにした功績があると言えるでしょう。

次に江戸後期の第10代家治(1737~1786没・在職1760~1786)期のグラフを示します。
この家治期グラフまでの7期で、過半数の4期以上で上位に入った曲は17曲です。内訳は「高砂23・猩々9/賀茂61・田村29・三輪30・屋島35・熊野13/舟弁慶3・道成寺26・江口82・実盛94/自然居士73・善界85・葵上2・紅葉狩40・兼平142・東北62」(数字は現代順位。斜線区切りは上位該当期数の区分。ゴシックは現代30位以内。)となっています。約半数の8曲が現代30位以内の超人気曲になっており、「兼平」以外は100位以内となって、江戸時代の評価が現代に引き継がれているかのようです。最後の「兼平・東北」は④家継期から連続4期で上位に入った曲です。また、また、「石橋20・弓八幡76・半蔀12・夜討曽我174」の4曲が新たに上位曲に登場し、選曲の幅が広がっています。

第10代家治は、江戸城で9代家重の長男として生まれ、祖父の吉宗から寵愛・薫陶を受け、書画・将棋・能・鉄砲に長じた愛妻家でした。幕政は父家重が登用した田沼意次(1719~1788)に側用人と老中を兼任させる異例の抜擢で全てを任せていました。しかし、明和の大火・浅間山噴火・天明の飢饉などがあり、社会が不安定になりました。

この期間の1774安永3年に「解体新書」が医師で蘭学者だった二人によって翻訳出版されています。前野良沢(1723~1803)が翻訳し、杉田玄白(1733~1817)が清書したと伝わります。そして、平賀源内(1728~1780)が活躍したのもこの頃です。

次に江戸後期となる第11代家斉期のグラフを示します。但し、家斉(1773~1841)は在職が1787~1837の50年に及ぶので、前・後期に2分して掲載します。先ずは前期1787~1812の25年間のグラフです。
ここまで8期の「翁」を除く上位曲は延べ190曲になりますが、4期以上で名が挙がるのは次の20曲に過ぎません。8期での演能回数と現代順位を添えて示します。「高砂8期で244回,現代23位・猩々208,9;以上8期 /賀茂152,61・田村148,29・屋島136,35;7期 /舟弁慶134,3・道成寺149,26・三輪123,30・熊野121,13;6期 /江口82,82・実盛82,94・葵上72,2・東北57,62;5期 /自然居士96,73・82,11・箙72,111・善界72,85・羽衣60,1・紅葉狩57,40・兼平53,142;4期」(/は上位登場期数区切り。ゴシックは現代30位以内の曲)
限られた曲を繰り返し演能し続けていたと言えます。しかし、その半数の10曲が現代で30位以内の超人気曲となっており、残りの10曲も「箙」の111位を除くと、100位以内の比較的に良く演じられる曲となっていることは興味深いところです。

この間のトピックスは、11代家斉が宝生流を贔屓ヒイキし、次の12代家慶と2代続けて能楽指南役を宝生大夫に努めさせたことです。宝生14世将監英勝フサカツ(1811没41才)は1799寛政11に一橋家の後援を得て、宝生流で最初の版行謡本・寛政版210番を刊行しています(明治になって30番が除外されています)。そして英勝の孫・弥五郎友于トモユキ(1863没65才)は宝生15世と指南役を継承し、家慶の許しを得て1848弘化5年に江戸筋違橋で15日間の一世一代勧進能興行を打ちます。これが江戸時代最後の勧進能となり、現代に繫がる宝生流・流勢の基となっています。

11代家斉(1773~1841没・在職1787~1837)は8代吉宗の曽孫で、徳川御三卿の一つ、一橋家2代当主・治済の長男でした。先代将軍家治の養子となり、家治が50才で急死すると、15才で将軍に就任しました。将軍在任期間は50年に及び、50人以上の子供を儲け、幕府財政を破綻させるほど贅沢な暮らしを続けました。商工業重視の田沼意次(1719~1788)を罷免し、第8代将軍吉宗の孫で陸奥白河藩主の松平定信(1759~1829)を老中に登用します。11代将軍には定信が就く流れを田沼に遮られたのは皮肉なことです。定信は農業を重視した「寛政の改革(1787~1793)」で緊縮財政等を行いますが「天明の飢饉(1782~1788)」や賄賂横行もあって失脚します。

次回は、2025.3/31に家斉後半期と幕末へ向かう時期の演能状況を第7部-5「11家斉後期・12家慶期・13家定期」として掲載する予定です。

引き続き第7部をご覧になる場合は「謡曲の統計7」から進んでください。

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