その他 第7部-5 11家斉後期・12家慶期・13家定期
2025-03-23
前節の11代家斉前半期に続き、後半期のグラフを示します。

将軍在任50年の家斉前半期では924番(194曲)の演能がありましたが、後半期では750番(166曲)と2割も減少しています。「翁」を除く上位曲を見ると、前半期と重複しているのは「高砂23・猩々9・田村29・賀茂61・屋島35・舟弁慶3・道成寺26・東北62・箙111・融11・羽衣1・忠度64・石橋20・弓八幡76」(数字は現代順位以下同様)の14曲で、前半だけに「葵上2・兼平142・経正42・嵐山107・鉢木48・国栖74・巴32・土蜘蛛21・和布刈138」の9曲(下線はこれまでの9期で、上位初登場の曲。次も同じ)、後半だけに「紅葉狩40・竜田89・安宅47・養老54・春日竜神108・老松9・杜若6・小鍛冶7」の8曲があります。
同じ将軍のもとで頻繁に演じられた曲なのに、前半と後半では半分以上は同じ曲になっていますが、残りの半分近くの曲は違う曲になっています。また、重複している曲でも、前半と後半で演能回数に大きな差のある曲があります。「融」は前半で21回も演じられたのに、後半では11回にほぼ半減しています。「船弁慶」も15回から11回に減少しています。逆に「弓八幡」は11回が15回に増加しています。減少した「融」(世阿弥作)と「船弁慶」(信光作)は5番目曲で構成も整って芸術的な完成度が高く、現代で11位と3位を占める超人気曲となっています。他方で増加した「弓八幡」は、「高砂」と同様に世阿弥作で真の脇能(初番目)と称され、「高砂」より序破急の構成が整っています。源氏の守護神である八幡神の威徳と、「弓を袋に入れ、剱を箱に納め」に象徴される天下泰平を讃える曲であり、現代で76位となっています。「高砂」が徳川の旧性だった松平に因む「松」を讃えた曲なので、江戸時代では特に頻繁に演じられました。こうした違いは、江戸城での演目の選定がどのようにされていたのかを探るヒントになりそうです。
家斉後半期の著名人には、国学者の本居宣長1730~1801、「東海道中膝栗毛;1802」で知られる十返舎一九1765~1831、測量して日本地図1800~1816を作った伊能忠敬1745~1818、越後出身の清貧僧の良寛1758~1831、俳人の小林一茶1763~1828、浮世絵の葛飾北斎1760~1849や歌川広重1797~1858などが挙げられます。また、歌舞伎7代目市川団十郎1791~1859が能の「安宅」を元に創作された「勧進帳」など歌舞伎18番を選定して歌舞伎ブームを招来しています。これらを江戸町民中心の化政文化1804~1830と呼ばれています。また、天保の1830年代からは寺子屋が急増しています。しかし、1833~1839の天保の大飢饉や、飢饉に端を発する大塩平八郎の乱1837などがあり、幕藩体制崩壊の始まりを迎えることになります。
次に幕末へ向かう12代家慶期のグラフを示します。

ここまで10期の「翁」を除く上位曲で、半分の6期以上に挙がった曲を、演能回数と現代順位を添えて示す次のとおりです。「高砂271回,23位、猩々250,9;10期/田村181,29、賀茂168,61、屋島159,35;9期/道成寺170,26;8期/舟弁慶165,3、三輪131,30;7期/、熊野121,13、箙104,111、融103,11、羽衣88,1、東北73回,62位;6期」。この13曲の現代順位を見ると「箙」の111位を除けば、ほかは62位以上の人気曲が並んでいます。
家慶(1793~18523没・在任1837~1853)は家斉の次男として江戸城で生まれ、大御所だった父の死後(1841)に、老中だった水野忠邦(1794~1851)を首座に重用して「天保の改革」を進めます。しかし、極端な倹約や上知令などで改革は失敗に終わり、忠邦が失脚すると阿部正弘(1819~1857)が登用されますが、ペリーの黒船初来航1853.7/8(嘉永6.6/3)の19日後に家慶は病死しています。また、将軍就任の1837年にアメリカ船をイギリス軍艦と間違って砲撃するモリソン号事件が起こり、この対応を批判した高野長英(1804~1850)・渡辺崋山(1793~1841)が処罰されており、1840~1842年にはアヘン戦争で清がイギリスに敗れています。内憂外患が急を告げる時代となっていました。
次に幕末へ向かう13代家定期のグラフを示します。
13代家定(1824~1858没)期は将軍在職が1853~1858年の5年間と短く、演能回数は前期の1/5以下に急減し、曲目も103番に減っています。曲別では「翁」の10回を除くと、1~4回の演能だけになっています。グラフでは上位曲を21位まで載せましたが、これまでの上位曲と同じには扱えないので、次の家茂期と合わせて比較することとします。
家定は、ペリー初来航直後に先代家慶が病死して13代将軍に就きました。家定は生まれつきの病弱で政務は老中の阿部正弘に任され、翌年3月に日米和親条約が調印されました。薩摩藩の篤姫(天璋院)を3人目の正妻に迎えましたが、実子は無く35才で亡くなっています。
次回は、2025.4/15に将軍期別上位曲の比較一覧を、第7部-6「14家茂期」として掲載する予定です。
引き続き第7部をご覧になる場合は「謡曲の統計7」から進んでください。