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その他 第8部-3 江戸時代の勧進能(会場について)

2025-06-05

前々節の勧進能の会場には筋違スジカイ橋や幸サイワイ橋が多く登場しました。これらは江戸城の外濠に架けられた橋の名称で、内側に門を構えた見張り番所と言われる見附ミツケが備わっていました。濠や川の外側の空き地に仮設の能舞台や観客席などが設けられたもので、○○橋門外などと表記されています。

筋違橋は江戸城の鬼門にあたる東北方向の神田川に架けた橋で、寛永寺へ続く御成オナリ道と、日本橋から中山道への道が交差するので筋違の名称となったそうです(異説もあります)。また、日光東照宮への御成道に通じていました。この橋は寛永年間(1624~1644)に架けられ、1872明治5年に撤去されて、少し下流に替りの万世橋(国道17号)が設けられました。現在のJR秋葉原駅南西近傍に位置します。

幸橋は江戸城南方向の汐留川(現在は暗渠)に架かっていた橋で、JR新橋駅北辺にあたります。将軍の増上寺参詣で通ることから御成オナリ門とも呼ばれました。橋の内(北)側が内幸町となっています。

蛇足ですが、江戸城の重要な門には四角形の塀で囲んだ「桝形マスガタ」が備えられて桝形門と呼ばれていました。桝形は城兵50騎が並べる大きさになっていたようで、三十六見附などと総称されていました。筋違橋門も幸橋門も桝形門になっていました。どちらも1636年寛永13年に、前者は前田利常、後者は細川忠利によって築造されました。後者は1873明治6年に撤去されています。

勧進能の会場について、丸山奈巳「江戸時代における一世一代勧進能興行場」(2012.3)論文がWebで公開されていましたので、その一端を紹介しておきます。論文では勧進能の会場は江戸城の外濠外側の火除空地等に設営され、会場規模について、1日に武士を除いて町人客を寛延期(1748~1751)で6500人分ほど、文化(1804~1818)以降は3500人分の確保が基準とされ、敷地面積の変遷について、1656明暦2(観世能)では6930坪あったが、寛延後は約4000坪に減少し、天保時(1830~1844)には1000坪まで狭くなったので会場平面の改変が難しく、弘化期(1844~1848)からは寛延型に復した、と記しています。(論文の拾い読みによる。西暦はブログ子。)

次に、丸山論文の付表から会場規模等を抜き出した表を示します。
表は一世一代能の場合を示しています。1831年の勧進能が観客の多さに対し会場が狭いことから、例外的に25日興行に延長されています。つまり、敷地面積は少なくとも2000坪以上が標準だったことになります。非常に大きな会場が用意されていたのです。日本武道館の建築面崎が約2500坪ですから、これに匹敵する以上の規模だったと言えるでしょう。

観客数については、入場者数を記した古記録もありますが、限られた件数なので、1848年の宝生勧進能について詳細が分かっていますのでそれを紹介することとします。参照資料は①野上記念法政大学能楽研究所・ 能楽貴重資料デジタルコレクション・史料「弘化勧進能絵巻」(能楽研究所蔵)と、②早稲田大学文化資源・古典籍総合データベース勧進能番組「宝生勧進能絵巻」の2件です。どちらも同じ表を掲げていました。
上表から15日間で6万人近い観客があり、毎日2500~5000人もの入場のあったことが分かります。入れ替えを含む人数なのかは分かりませんが、現在の銀座Ⅵの観世能楽堂の客席数が480席であることと比べ、先の表とも合わせ見て、勧進能の会場は10倍以上の規模であったことに驚かされます。マイクや拡声器に映像投射の発達した今こそ数千人、いや万人規模の観客を入れた演能も可能でしょう。壮大な会場で一期一会の「能」を観る機会があっても良いのではないでしょうか。

次回は、2025.6/23に第8部-4「勧進能番組の把握」を掲載しました。

引き続き第8部をご覧になる場合は「謡曲の統計8」から進んでください。

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