前節で室町中期と後期・織豊期では演能記録状況に大きな差のあることを示しました。能楽源流考・第11章「演能曲目考」の序文では、この間の状況を次のように記述しています。
【室町時代の演能記録自体は多くあるが、曲目を記したものは少ない。特に天文(1532~1555)以前は極めて少なく、天文以後でも言継卿記(1527~1576の日記)・證如上人日記(天文日記とも・1536~1554)・下間少進能之留帳(1551~1615)は詳細だが、他は稀である。管見に入り得た僅少の資料を以って、室町時代の曲目を云々するのは、その結論に於いて、甚だ粗笨ソホンなものたるを免れない。慶長(1596~1615)以後では、漏れたものが多いであろうと思うが、文禄(1592~1596)までは大体洩れないように努めた。なお、永享(1429~1441)以前のものは、判明したもの少々と、世阿弥の遺書などによって演能せられたであろうと推定し得る曲目をあげることとし、尚、能作に関する記録よりの想像も加えて後に一括して付記することとする。】
また、源流考の年次対照表の後記では、室町・織豊期演能について次のように付言しています。
【1. 下間少進の演能が非常に多く加わっている結果、少進の好んで演じた曲目、例えば、葵上32回・源氏供養48・自然居士32・熊野48・山姥40等の演能回数が、比較的多くを占める結果となった。(数字はブログ子補記の演能番数で以下同様。他に25回以上では、松風32・杜若30・百万30・実盛29・三輪29・江口27・船弁慶26回があります。)
2.高砂45回・呉服40・老松36・猩々29・弓八幡28回等の演能回数が多いのは、これが初番能・切能などに用いられる事が多いために、自然と回数が多くなったものと見るべき事である。
3.今日(昭和13年当時)比較的人気があり、人々の好む能である為に、多く演せられている曲が、室町時代に案外に演ぜられる事の少ない曲もある。
4.安宅・歌占・景清・熊坂・小督・小袖曾我・俊寛・鉢木・花筺・砧・弱法師等の演能回数は誠に寂しい。(安宅は6回、熊坂は5回で他は2~0回と確認できます。)
5.求塚・檜垣・巴・蝉丸・草紙洗小町・大江山・大原御幸・雨月等の、(昭和の)今日相当にもてはやされている曲が、室町時代にこれだけ多数の演能記録の中に一回も記録として見られないことは、時代的な好みの反映として興味があるように感じる。】
下間少進・能之留帳については、第5部-14で説明をしましたが、能楽大辞典等を参照しながら補足しておきます。
下間シモツマ少進ショウシン・仲孝ナカタカ等とも(1551~1616)は、本願寺の坊官であり、織田信長と石山本願寺の合戦開始(1570)頃から寺内で頭角を現し、その講和(1580)では寺を代表する三年寄の一人として署名しています。(石山本願寺は現在の大阪城の地に在って、信長との講和を巡る内部対立で移転先の京都で東・西本願寺に分裂した経緯があります。)以後、信長・秀吉・家康との交渉役を果しています。少進の後援者・岳父の下間丹後光頼は本願寺の奏者を勤め、観世6世元広(道見1485~1522)の教えを受け、少進も観世流を学びました。また、金春大夫喜勝(圾蓮1510~1583)を看護救命した縁から、1582年以降、金春流の秘事を次々と伝授され、手猿楽(素人役者)の第一人者と評されて秀吉や家康にも能を披露しています。また、関白秀次(1568~1595)の能の師を勤め、1588年からの約30年間で約1200番の能を演じて、その手控えを「能之留帳」に残しました。(能楽源流考では、下間・法印などと略記されて頻繁に記録されています。)
能楽源流考の記述にもどり、3.永享以前の演能曲目、その他から抜粋しておきます。
【永享年代(1429~1441)以前の演能曲目として、最も古いものは、「貞和(1345~1350)の猿楽能」の際に於て述べた、貞和五年二月十日(1349.3/7)、春日神社拝殿方巫女及び禰宜の催した臨時祭に行はれた曲であらう。巫女の演じた猿楽能には、「憲清殿鳥羽殿にて十首の歌よみたる所」(中略)があり、(中略)禰宜の演じた田楽能には(中略)「斑足太子が普明王を生け捕りたる能」が行はれた由が記されてゐるのである。又この年の六月一日に四條河原桟敷崩れの田楽が行はれ、「日吉山王の利生あらたなる猿楽」が行はれえた事が太平記に見える。尚、田楽能としては、正平8・9年(1353・1354)の頃に、祇園の勧進猿楽に「四匹の鬼の能」なるものが行はれた事が、落書露顕に見えてゐるのである。】(この記述からは、室町初期の演目には現在で言われている「曲名」がなく、演目の内容概要が記されていたことが知られます)
【以上の他に、豊富な資料を提示するもの、(世阿弥伝書の)能作書や申楽談義・五音等がある。これ等の書は演能の記録をとどめる目的で書かれたものではないが、その中に配されて居る曲は、少くとも、その時代までには演能せられた事があったものと考へられるからである。今これ等の資料を以て考へて見ると、その中に、観阿弥(1333~1384)の演じた田楽能・犬王道阿弥(?~1413)の演じた曲等が記されて居るが、それ等は何れも、それ等の演者の死歿以前に実演された(年次は不明であるけれども)ものと認め得るものである。又、これ等の人々や世阿弥等の作能の曲目について見るに、当時の状態よりして、作能された曲は必ず実演せられたものと考へ得られるから、能作書に見える曲は応永三十年(1423)以前に、申楽談義に記されてゐる曲は永享二年(1430)以前に、五音に記されてゐる曲は、永享年中(1429~1441)以前に、それぞれ実演されたものと考へて差支ないと思ふのである。】(外縁観測ではこれらの世阿弥伝書に記録された曲名だけで演能された曲とは捉えていません。)
【次にかやうな立場に立って見ると、観阿弥が演じた曲として、申楽談義に見えるものには、[A静が舞の能・大念仏の女物狂の能・住吉遷宮の能・自然居士・四位少将の能・融の大臣の能・草刈の能・たうらうの能]があり、彼の作曲した能としては、談儀及び五音には、右の外に、[B伏見・淡路・江口の遊女・松風・布留・求塚・高野・葛の袴(住吉遷宮の能か)・李夫人・白髪・小町]の如きものが見える。この中には、世阿弥が後に改作した曲もあるが、恐らく観阿弥が生存中に演じたものと見て良いであらう。さすれば、これ等の曲は、観阿弥の歿した至徳元年(1384)までの間に上演せられたものと考へられると思ふ。】
【犬玉道阿弥(前出)の演じた曲としては.申楽談義に、[C葵上の能・念仏の申楽・天女の能・もりかたの猿楽・こは子にてなきといふ猿楽]等が記されて居り、これ等の曲が犬王道阿弥の歿した応永二十年(1413)までに演ぜられた事は明かである。
田楽の方面では、亀阿弥(生没年不詳)の演じた曲としては、応安七年(1374)の若宮祭装束賜の際に、「炭焼」の曲を演じたことが申楽談義に見え、五音には亀阿弥作曲の能とし[D熱田・汐汲・竹取歌・かぶろかうや・女郎花]の五曲が見える。彼が自ら作曲したのであるから、恐らく彼の生存中に彼自ら演じたであらうと思ふ。但し.亀阿弥の歿年は明瞭でないが、応永(1394~1428)の中頃には歿して居たものかと思ふ。又、同じく田楽者の増阿弥(生没年不詳)所演の曲としては、「尺八の能」なるものが談儀に記されてゐる。増阿の歿年も明かでないが、応永末年(1428)には故人となって居たものと考へられる。】
【次に能作書には、次の曲が記されてゐる。
[E八幡・相生・養老・老松・鹽がま・蟻通・箱崎・鵜羽・盲打・静・松風・百万・浮船・檜垣女・小町・通盛・忠度・実盛・清経・敦盛・丹後物狂・自然居士・高野・逢坂・恋重荷・佐野船橋・四位少将・泰山府君・笛物狂・汐太鼓・花月・東岸居士・西岸居士]
【これ等の曲は、少なくとも応永三十年(1423)以前に成った曲であり、それまでに実演せられたものと考へて良い。又、申楽談義は右にあげた能作書の曲の他に、[F砧・鵜飼・姥捨・高野物狂・右近・経盛・角田川・石川郎女・重衡・弱法師・弓八幡・富士・班女・錦木・土車・六代・桜川・藤栄・井筒・八島・西行・阿古屋松・千方・笠間・守屋・業平・松ケ崎・素戔嗚尊・柏崎・鐘の能・逆髪・空也上人・初若・雲林院・花筐]の曲が見え、又曲名としではあげられて居ないが、引用せられてゐる詞章より考へて、大凡その曲名の想像せられるものの中、大体確実に推断出来るものとしては、[G歌占・源太夫・雪山・求塚・江口・富士・花筐・昭君・足引山・芦刈]等がある。この中には前に記したものと重複するものもあるが[求塚・江口・松ケ崎・花筐の如き]これ等の曲は、大体永享二年(1430)の頃までに実演せられたものと考へて良いものである。次に五音によると、以上あげた以外の曲としては、[H吉野山・敷島・須磨源氏・六月祓・松浦・鍾馗・当麻・盛久・蘇武・宇治山・春栄・橋立・鵺・千壽・野守・伏見・飛火]等の曲名が見える。これ等の曲は大凡永享年中(1429~1441)迄には演能せられてゐるものと考えて良いであらう。】
【尚、かやうな立場に立って見る時、大永四年(1524)に成った能本作者注文に示されて居る曲は、恐らくその当時までに、少なくとも一度や二度は実演せられたものと考へ得るであらう。その中、観世小次郎(長俊1488~1541)作能とあるものは、永正年中(1504~1521)彼の死没以前に実演せられたものと考えて良いであらう。同様の立場から、自家伝承(1516成立か)に記された曲も、永正十三年(1506)以前には、演能せられてゐるといふ事も推論して良いかと思ふ。それ等の曲目を一々例擧する事は、煩雑に亙る故省略に従ひ度い。】
【演能記録に於ては。天文時代(1532~1555)以前は誠に貧弱であるが、その貧弱な点は、以上述べたやうな資料よりの推測を以って、或度まで補ひ得るかと思ふので、極めて常識的な事ながら附言した次第である。】
以上の記述から、世阿弥の活躍した室町初期の演能状況を把握することになりますが、残念ながら演能回数は分からないままです。第5部-5で紹介した、表章論文「能の変貌――演目の変貌を通して」(1990法政大学学術機関リポジトリ)と合わせ見て、一覧表とする場合に工夫することとします。
次回は2025.12/31に第9部-5「室町・織豊期の演能データについて」を掲載する予定です。
引き続き第9部をご覧になる場合は「謡曲の統計9」から進んでください。



