その他 第9部-5 室町・織豊期の演能データについて
2025-12-25
では、能楽源流考での演能記録状況をもう一度みてみます。グラフにすると次のとおりです。
能楽源流考での演能記録は、世阿弥の活躍した室町初期の38年間に回数データのない事が再確認できます。また、上のグラフのように、天文年間(1532)以前はその後の記録頻度の1/10しかありません。
なお、世阿弥(1363生~1443没)は1384年の父・観阿弥の死により弱冠21才で観世大夫を継ぎ、最後の演能記録が1432年の70才となっています。従って、世阿弥の演能活躍期は、上のグラフのデータが欠けている期間とほぼ一致していることが確認できます。この期間の曲別演能回数の把握は残念ですが困難なことが分かります。
ここで、能楽源流考から読み取った室町中期以後の各期間別の演能者の構成を見てみます。
最初は室町中期のグラフです。

このグラフでは、いわゆる大和系四座の観世・金春・宝生・金剛が全体の7割強を占めています。その他19%の多くは手猿楽と見られ、日吉や矢田の名も見えます。
手猿楽とは素人猿楽の意で、猿楽本業の座に属していない演者を指しています。室町中期から江戸前期にかけて主として京都で活躍していました。禁裏(宮中)には手猿楽以外を入れない建前だったので、禁裏及び仙洞(上皇邸)や公家邸などが主な舞台でした。少年による小猿楽や女猿楽も早くからありましたが、一般的な手猿楽の上演記録は文明期(1469~1487)以降となっています。早い頃は一代限りでしたが、中には代を重ねて家柄を立てるようになり、江戸時代には地方雄藩の能大夫として召し抱えられるケースも少なくありませんでした。(能楽大辞典参照) また、手猿楽が職業的に発展したのは、文明末年(1487)から明応(1492~1501)の20年間程が最盛期でした。(能楽源流考参照)
日吉は、世阿弥に影響を与えた犬王の属した近江猿楽の日吉(比叡)座か、丹波猿楽の一座かは不明。矢田は丹波猿楽の一座と思われます。
このグラフの40件のデータの根拠とされた古記録は、16種類あり、禅鳳申楽談義(禅鳳雑談とも1512~1525の芸談聞書)6件、二水記(1504~1533日記)5件、粟田口尊應准后猿楽記(1521)・実隆公記(1474~1536日記)の各4件、蔭涼軒日記(1435~1466、1484~1493などの公用日記)・春日拝殿方諸日記(1465、1467の祭礼記録)・糺河原勧進猿楽日記(1464勧進能)の各3件などとなっており、各種資料から参照されています。
次に、室町後期の演者構成グラフを示します。

先の中期のグラフと比べると、全く様相が異なっています。大和系四座は合わせて35%に半減しています。
八田(矢田)は、丹波猿楽の一座で観阿弥の京進出以前は京での猿楽の主流だったようです。しかし、愛王大夫の応永22年1415の隠棲以後衰退し、後継の一部が宝生や観世のツレ・狂言・地謡方として江戸幕末まで代を重ねました。
本願寺は、石山本願寺年頭坊主能のことで、僧侶の手猿楽です。
春一は、証如上人日記に登場する春日大夫で石山本願寺での演能に出演していますが、詳細は不明で織豊期には下間少進との共演(一つの行事で複数曲・複数演者の意)が激増します。
日吉・手猿楽は、先のグラフ説明のとおりです。
その他には、宮王5・大蔵4・梅若2があり、1回だけに十二大夫・厳島大夫・近江大夫・春日大夫・長命・久阿與七郎・坊官頼賢・淀大夫・鷲田大夫の名があります。
この期間の記録参照資料は、159件の多さにかかわらず、13種しか挙げてありあません。内訳を見ると、言継卿記(1527~1576日記)57件・証如上人日記(天文日記とも、1536~1554)54件・多聞院日記(1478~1618奈良興福寺多聞院の日記)21件の3種で全体の83%を占めます。ほかの資料は中臣祐磯記(1598~1623春日社社司の日記)7件(4%)以下で、資料の広さに欠けているようです。
次回は、2026.1/15に第9部-6「室町・織豊期の演能データについて2」を掲載する予定です。
引き続き第9部をご覧になる場合は「謡曲の統計9」から進んでください。