その他 第9部-8 吉田東伍と世阿弥十六部集
2026-02-12
明治時代までのデータ整理が終わり、次は昭和以降へ進みたいところですが、
明治期の能楽研究で忘れてならない事があります。新潟県出身の
吉田東伍が明治42年1909に「
世阿弥十六部集」を翻刻・校訂・刊行したことです。世阿弥が最初の能楽論書「風姿花伝」第一~三までを著わした応永7年1400から509年も後のことであり、今から僅か117年前のことになります。
国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (
https://www.ndl.go.jp/portrait/)から、吉田東伍の写真を載せておきます。

吉田東伍は、明治~大正初期に活躍の歴史地理学者です。江戸時代末期の元治元年4月14日(1864.5/19)に越後国蒲原郡保田ヤスダ村(現新潟県阿賀野市安田・旧水原市)で名字帯刀を許された山林地主(田畑350、山林3700町歩)旗野木七(号が古樹)・園子の三男として生まれました。保田小学校(旧必勤舎)卒業後、10才で新潟市の県営新潟学校に入学し、更に官立新潟英語学校(詳細後記)へ転校し、明治10年1877に学校が廃されて県立新潟学校(新潟大学前身)に引き継がれるとその中等部へ移りますが、その年の暮に13才で中退します。独学で19才のとき教員試験に合格して、中蒲原郡の大鹿(現新潟市秋葉区・旧新津市) 小学校教員を務め、20才で大鹿村の吉田家養子となって長女カツミと結婚しています。
その後、1年志願兵(仙台兵営)を経て、26才のとき単身で北海道に渡り、鮭漁に従事しながら地理や歴史を研究します。史学雑誌に寄稿した「古代半島興廃概考」が注目され、また、親戚の市島春城(詳細後記)の縁もあって、28才で読売新聞社に入社して「徳川政教考2巻」「日韓古史断」を著し、日清戦争の従軍記者から帰国後、31才で「大日本地名辞書」(11冊・41000項目・1200万字・原稿の厚さ5m)の編纂に着手し、1900年から出版を始め1907年・43才で刊行を終了させます(1909年に続刊)。序文には大隈重信・大槻文彦・坪内逍遙・嘉納治五郎等、錚々たる人士が27名(第二版序文は渋沢栄一)も名を連ねています。
この間1901年・37才で東京専門学校(翌年早稲田大学と改称)講師となり、1908年に「世子六十以後申楽談義」を発見して校訂し、翌年45才で「能楽古典世阿弥十六部集」を刊行しました。
これらの功績が認められて1909年に学歴のないまま文学博士に叙せられます(推薦順位は森鴎外・久米邦武ら4名を凌いで筆頭)。続いて「維新史八講」「利根治水論考」を出版し、北朝正統説を主張して、47才で早稲田大学教授に就任します。以後も「倒叙日本史全12巻・日本歴史地理之研究・日本文明史話・庄園制度之大要・中古歌謡宴曲全集」などを次々と著し、53才で早稲田大学理事となっています。
しかし、50才から編集を始めていた「国史百科事典」の完成を見ずに、大正7年(1918)1月22日に53才9ケ月で(学内抗争の疲労もあって)尿毒症のため転地療養先の千葉県銚子市で急逝しました。
参):官立新潟英語学校=全国7学区に設立の一つで、後期東京開成学校(東京大学&東京帝国大学の前身)への進学を目標とした学校。官立東京英語学校を出た開成学校合格者には、市島春城=詳細後記、高田早苗=読売新聞主筆・早稲田大学学長のちに総長・文部大臣、石川千代松=進化論を紹介した動物学者、田中館愛橘=文化勲章受章・物理学者、土方寧=法学者・貴族院議員など(愛知学校出には坪内逍遥=小説家)がいます。
また、東京開成学校卒業生には大日本帝国憲法起草者の一人井上毅、岩倉使節団員の中江兆民、第20代総理大臣高橋是清、日露戦争後の条約を締結した小村寿太郎、理化学研究所第2代所長の古市公威などがいます。
吉田東伍の家族には、「琵琶湖周航の歌」の原曲「ひつじぐさ」を作曲した次男の千秋(1895~1919)、英文学者で新潟大学教授を務めた三男の冬蔵などがいます(ブログ子はこの冬蔵教授から英語を習いました)。また、実弟の高橋義彦(1870~1931)は大日本地名辞書編纂に協力し、新潟市史編集顧問を務め、「越佐史料(全7巻)」を5巻迄刊行しました(6巻準備中に発病)。
叔父の旗野十一郎トリヒコ(1850~1908)は東伍が入学した時の保田ヤスダ小学校(旗野の設立運動で設置)初代校長で、東京音楽学校(東京芸術大学前身)で韻学と文学を講じ、文部省唱歌の「港」「川中島」など多数を作詞しています。
また、市島春城(1860~1944本名謙吉)は東伍と姻戚関係にあるだけでなく、よき後援者でした。越後国蒲原郡水原村(現新潟県阿賀野市・旧水原市)の市島家筆頭分家角市カクイチ市島家はいわゆる千丁歩地主の豪農。英才教育を受け、水原県立広業館・県立新潟学校・官立東京英語学校(前出)・後期東京開成学校(前出)を経て1878年に東京大学(東京帝国大学前身)に入学し、高田早苗・坪内逍遥らと同級生となりますが翌年に退学。後に高田・坪内との縁により東京専門学校(早稲田大学前身)で政治学を講じ、衆議院議員のまま読売新聞主筆を務め、早稲田大学初代図書館長となり、大隈重信の葬儀委員長を務めています。
現在、吉田東伍の生家跡地に「吉田東伍記念博物館」が設置され、地元での啓蒙活動や地域の教育拠点として活用されています。
次に、国立国会図書館デジタルコレクションから「世阿弥十六部集」最後の「金島集」末尾、世子署名題詠模写の影印(:314・315頁:197/202コマ)を載せておきます。
「金島集」は世阿弥最晩年の著述で、佐渡配流の道中や配所での見聞を8編(有題7編・無題1編)の謡い物にまとめたものです。(十六部集序引の原本外題に、金島書と記されていたとありますが、吉田は後人の追号と解して金島集としていました。現在は金島書と呼ばれています。)

「これを見ん、残す黄金コガネの島千鳥、跡も朽ちせぬ世々のしるしに/永享八年(1436)二月日/沙彌善芳(世阿弥74才)」→「黄金の島の佐渡で書き残したこの筆の跡(金島書)は、朽ちることのない後世までの形見として、後代の人に見てもらえるであろうか」(「世阿弥・禅竹」1974刊・表章頭注参照。また、鳥の足跡を見て文字が作られたという中国古代の故事があり、古今集仮名序の結びに「鳥の跡、久しくとどまれらば…」もあります。ブログ子は筆跡に数々の謡本も含まれ、朽ちることなく後世に伝わることを望んだと拡大解釈しています。)
十六部集の内表紙には、「世阿彌十六部集」とあり、次頁に吉田東伍校註/能楽古典世阿彌十六部集全/能楽会 と印刷され、最終頁に明治42年(1909)2月10日印刷/明治42年2月13日発行/編集兼発行者:池内信嘉/発兌元:能楽会/発売所:能楽館とあります。
世阿弥の謡曲以外の著書等(以下伝書という)については第1部-7で風姿花伝など22編(禅竹宛書簡含む)の概要を紹介したとおりです。それは1909年の吉田東伍「世阿弥十六部集」刊行から65年後の「世阿弥・禅竹」(1974年・岩波書店・日本思想体系24・表章校訂)を参照したものでした。前者は現代能楽研究の出発点であり、後者は世阿弥伝書研究のほぼ終着点となっています。
吉田東伍は十六部集刊行前年の明治41年1908に「世子60以後申楽談義」(世阿弥次男元能の聞き書き・和紙53枚)を編纂しています。これは吉田が小杉椙邨コスギスギムラ(国学者1835~1910)所蔵本から発見したものです。原本は塙ハナワ家の写本を、黒川春村(国学者1799~1867)が写し、それを50年前(1860頃・安政末期)に小杉が借りて書写したものでした。平仮名書きで終尾を欠いていましたが、室町~江戸時代で全く世に出ていなかった貴重な伝書の発見でした。
この申楽談義は、池内信嘉(第8・9部で度々参照した「能楽盛衰記」の著者)が久米邦武、坪内逍遥、高田早苗、吉田東伍ら20余名に呼び掛けて発足した能楽文学研究会から刊行されました。この年の7月に子爵(旧藩華族)堀家旧蔵能楽伝書の一群が安田財閥2代目の善之助(1879~1936)の松廼舎マツノヤ文庫に入り、申楽談義発刊の縁で吉田の閲覧に繋がります。これが十六部集の底本となり、驚くべき短期間で校訂され、翌年2月に申楽談義も含めて「能楽古典世阿弥十六部集」として能楽館から発売されました。吉田の資料を駆使する地理歴史の研究方法が威力を発揮した結果です。能楽館は能学会が立派に活動している中で、敢えて能楽雑誌の発行と囃子方養成などを目的として、池内信嘉が古市公威・大和田建樹・観世元規らと設立した組織です。
世阿弥伝書の伝存状況は「世阿弥・禅竹」の表章解説に詳しく記されています。これを参照しながら、吉田本に関連する事項を紹介しておきます。
元々の伝書は越智観世家・観世大夫家・金春大夫家のみに伝存し、秘伝とされたことと内容の特殊性もあって、一部の例外を除けば吉田の申楽談義・十六部集刊行まで世に広まることがありませんでした。
世阿弥の長男・元雅1394or1401~1432の子・十郎大夫1428頃~1483が興した越智観世家が元雅の弟・元能(申楽談義著者)の相伝本を含め、最も多くの伝書を継承したようです。越智観世家は室町後期に廃絶状態になりましたが、観世6世元広1485頃~1522と金春禅鳳の娘との間の子・十郎大夫(3代目)が再興し、転写を含め伝書が観世大夫家にも伝わりました(観世7世宗節1509~1583や8世元尚1536~1577の書写本等)。また、十郎大夫は駿河に下って家康の能の師となり「風姿花伝」や「申楽談義」などを献上しており(「花伝第七別紙口伝」宗節本奥書)、これを織田信忠や細川幽歳らが転写しています。その後、越智観世家は消滅しますが、観世家と徳川を近づけ、伝書を世に広める重要な役割を果たしました。
江戸時代に入り、家康所持の越智観世家伝来本の一つらしい「申楽談義」が文政元年1818に柳亭種彦(戯作者1783~1842)を通じて文人数人によって転写されています(例:書籍商の達磨屋五一ダルマヤゴイチ1817~1868=岩本〔花廼屋ハナノヤとも〕蛙麿カワズマロ筆の包紙あり)。
ブログ子は、これらの一つが江戸後期の「群書類従」編集で著名な塙保己一ハナワホキイチ1746~1821本人か周辺の手に渡り、塙ハナワ家の写本として吉田本申楽談義の原本になったと想像しています。(但し、談儀は奇本と見られたのか「群書類従」に入れられていません。)
吉田本十六部集の原本は、掘家旧蔵の一群の書が松廼屋文庫本に帰して吉田の目に留まったもので、全て一筆で寛永(1624~1644)頃の写本であったと言われ、諸本との校合から、越智観世家伝来本に基づく転写本と認められる、と表章解説にあります。残念なことにこれらの原本は1923年の関東大震災で焼失しており、一群の伝本記述は、吉田刊行本に頼るだけとなっています。
世阿弥伝書は一子相伝の秘書として扱われ、世間に広まっておらず、長い間、謡曲の作者を京都五山の高僧に仮託したりされてきました。吉田本十六部集により、世阿弥や金春禅竹などの作者も明らかとなり、現代能楽研究の幕を開けることができたのです。余りに迅速な校訂だったためか、今日では文章の各所に疑義も生じていますが、吉田本十六部集として今なお能楽研究の根源的位置を占めています。
吉田の十六部集刊行後、伝書の発掘・発見が相次ぎ、観世宗家所蔵本公開などもあり、最終形態が1974年の表章「世阿弥・禅竹」となっています。伝存形態による伝書間の相違など、この間の研究経過も興味深いところですが、同書の表章解説を参照してください。
ここで、吉田本十六部集の構成を見ておくこととします。枚数は松廼屋文庫原本の和紙枚数で、( )書きは現在通用の文書名です。
1.花伝書=第一~第五=69枚(風姿花伝第一~第七)
2.花伝別紙口伝20枚(風姿花伝第七)
3.五音曲条々10枚
4.習覚条々29枚(花鏡)
5.九位次第5枚(九位)
6.遊学習道見風書8枚(遊学習道風見)
7.至花道書13枚(至花道)
8.二曲三体絵図9枚(二曲三体人形図)
9.能作書16枚(三道)
10.曲附書13枚(曲付次第)
11.風曲集6枚
12.習道書11枚
13.世子六十以後申楽談儀53枚
14.金島集14枚(金島書)
15.夢跡一紙3枚
16.世子七十以後口伝6枚(却来華)
吉田「世阿弥十六部集」と表章「世阿弥・禅竹」の構成上の大きな違いを見ると、吉田本は風姿花伝第六(花修)が欠け、第七(花伝別紙口伝)を別書とした15部構成であり、「花鏡」が首部欠失で「習覚条々」と題しているほか、書名の違いがいくつかあります。表章本は、花習内抜書・音曲口伝・五位・六義・拾玉得花・五音・金春大夫宛書状が加えられ、全22部構成となっています。各編の内容概要は第1部-7を参照してください。
「風姿花伝」は来年(2027)春にもユネスコ委員会で「世界の記憶」登録が決定される見込みとなっています。対象は観世宗家伝来の次の3件です。観世アーカイブの資料映像コマ数と閲覧先を載せておきます。
①観世宗節署名五巻本『風姿花伝』(付「音曲口伝」)室町後期写:53コマ
https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/33d415f0-4d44-3fe7-7920-488239a3128b
②世阿弥直筆『花伝第六花修』応永十年1403~1413頃筆:22コマ
https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/297c497d-39ff-3803-3549-68854c310de4
③世阿弥直筆『花伝第七別紙口伝』応永十年1403~1413頃筆:26コマ
https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/258bfd52-0cb6-a2d2-23c4-dad9648f5ad3
次回は、2026.2/28に第9部-9「昭和・平成期の演能データなど」を掲載する予定です。
引き続き第9部をご覧になる場合は「謡曲の統計9」から進んでください。